悠田ドラゴのAll-Out ATTACK!!

悠田ドラゴのAll-Out ATTACK!!

カテゴリーをご覧になれば、どんなブログかだいたい察しがつくかと思います。

『ゴジラ対ヘドラ』歪でサイケなヘンテコ怪獣映画

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シリーズ中最も奇怪で歪なゴジラ映画

監督を引き受けるからには、それまでの娯楽路線のゴジラ映画とは全く違う作り方をしたい。それには、第1作のようにきちんとした文明批評的なメッセージが必要だ─中略─今、ゴジラを通して訴えるべき文明批評的なメッセージは公害だ(坂野義光/『ゴジラ対ヘドラ』監督・脚本)
ゴジラを飛ばした男 85歳の映像クリエイター 坂野義光』(フィールドワイ刊)より


あの頃は低予算で撮影期間も10日〜2週間くらい。子供向けというのがはっきり打ち出されていましたね。大変でしたけど、何かやらなきゃって燃えてた時期でもあって、それでゴジラを飛ばしちゃった。(中野昭慶/『ゴジラ対ヘドラ』特殊技術)
『てれびくんデラックス愛蔵版 ゴジラ1954-1999超全集』(小学館刊)より


1971年7月24日に公開されたシリーズ第11作ゴジラ対ヘドラは、社会問題となっていた公害の恐怖を、怪獣ヘドラに仮託して描いた意欲作です。ゴジラの飛行シーンがファンの間で賛否両論となったことでも知られる本作は、特殊技術を担当した中野昭慶氏の証言にあるように、予算と時間が限られた厳しい条件下で製作されました。当時はテレビの台頭により映画産業が縮小していた時代であり、東宝も苦境に立たされていたからです。

 

そのため、『ゴジラ対ヘドラ』は本編班と特撮班を分ける従来の形ではなく、一班体制で撮影。また、1970年1月にゴジラの生みの親の1人である円谷英二が鬼籍に入り、特撮部門の主要スタッフが退社するなど混乱が起きていたことも、大きな痛手となっていました。それでも、坂野&中野の両氏はまだ若手だったということもあり、「いままでやってきてないことを、思い切ってやっちゃおうよ」(中野談)という気概を迸らせ、本作を完成させます。


このような状況下で生まれた『ゴジラ対ヘドラ』は、端的にいって異常な映画です。これまでに公開された日米ゴジラ・シリーズのどの作品と比べても、『ゴジラ対ヘドラ』ほど奇怪で実験精神に溢れた1本はないでしょう。もちろん、どの作品においても製作者が意匠を凝らしており、いずれも個性的な仕上がりになっていますが、『ゴジラ対ヘドラ』のユニークさは頭ひとつ抜きん出ていると言わざるを得ません。


宇宙からやってきた鉱物生命体がヘドロと融合して、怪獣ヘドラが誕生。巨大化&形態を変化させながら、硫酸ミストや強酸性のヘドロ弾をまき散らして各地に甚大な被害を与えるヘドラに、自然環境を守るべくゴジラが挑んでいく。この単純明快なストーリーを紡ぎ出す手法において、『ゴジラ対ヘドラ』は他の作品には見られない、前衛的ともいえるテクニックを駆使しています。


たとえば、劇中唐突に挿入されるアニメーション。安井悦郎氏が手がけたこのアニメーションは、場面転換における間奏曲的な役割を果たすと同時に、ヘドラによって壊れていく人間社会を戯画的に描き出すことで、観客に与えるショックを増幅しています。

 

タンカーが二つに裂かれるシーン、ヘドラ原油を呑むシーン、黒煙を吐く工場が起重機で緑を摘み取るシーン…。公害のテーマを明確に打ち出すうえでも大きな力を発揮したいくつかのアニメーション映像の中で、マスクをした女の頬のケロイド状の傷が被害地区の地図と重なるシーンには大きな手応えを感じた。
ゴジラを飛ばした男 85歳の映像クリエイター 坂野義光』より


また、中盤に登場するマルチスクリーンを用いたドキュメンタリー風の映像も特筆すべきポイントです。画面が2つ、4つ、8つ…最終的に32分割までされていき、ヘドラに対して怒りの声を上げる市井の人々、ヘドロの海につかった赤ん坊(照明スタッフ・原 文良のお孫さん)、頭蓋骨や奇形魚の頭部…など、リアルなものから抽象的なものまで様々な映像がランダムに映し出されていきます。ヘドラによる被害や混乱が拡散していく様を巧みに表現したこのシーンは、日本映画という大きな枠組みにおいても画期的でした。


そんな『ゴジラ対ヘドラ』の最大の魅力は、ヘドラという怪獣の恐ろしさ、異様さです。ヘドロ弾をまき散らして屍の山を築き、硫酸ミストによって逃げ惑う人々を白骨化させていく。あまつさえゴジラですら、ヘドラの身体に突っ込んだ右手の肉が溶け、ヘドロ攻撃を喰らった左眼は潰れるという、満身創痍の状態にまで追い込まれます。その上、身体はヘドロ物理的な攻撃は全く効かない。ある意味、ゴジラ最大のライバル怪獣であるキングギドラよりも厄介な敵なのです。


安丸信行氏によるヘドラの造形も素晴らしく、ぼろ切れの塊のようなその姿はまさに“異形の者”。坂野監督からの要望で女性器をイメージしてデザインされた目も、生理的に嫌悪感を感じざるを得ません。長い手をぶら下げてユラリユラリと動くその様は、まるで幽霊のようにも思えます。一から十まで不気味なところしかないのが、ヘドラという怪獣なのです。


このように『ゴジラ対ヘドラ』には実験的映像と奇怪な怪獣描写が詰め込まれていますが、決して恐怖映画あるいは大人向け映画というベクトルには振り切らず、あくまで子ども向けという体裁を守っています。その二面性こそが本作の歪さであり、子ども達にある種のトラウマを植え付けつつ、その心を惹き付けることもできた要因なのではないしょうか。

 

シリーズ唯一のサイケなギター・ソロが乱舞するゴジラ映画

ゴジラ対ヘドラ』には、ゴーゴー喫茶「アングラ」で若者達がバンド演奏に合わせて踊り狂う有名なシーンがあります。

 

ゴーゴーとは、ロックやソウル・ミュージックのリズムに合わせて体を激しく動かす踊りで、1960年代の中ごろにアメリカで始まり、世界中の若者の間で流行した。それが日本にも上陸し、アルコール類やソフトドリンク類を飲みながら、流れる音楽に合わせて踊ることができる若者向けバーとして大変人気を得た。
『HEDORAH/公害怪獣の映像世界・最終版』鷲巣義明(自主制作)より


主要登場人物である毛内行夫(演:柴本俊夫)と富士宮ミキ(演:麻里圭子)の2人もこの狂騒の中にいるのですが、グラスを片手にカウンターに腰掛ける行夫はすっかりへべけれな状態。一方のミキは、裸体にペインティングを施した刺激的な格好でステージに立ち(実際は肌のように見える薄手の衣類を着用し、その上にペインティングして撮影)、環境破壊に対する痛烈なメッセージ・ソングを熱唱。ここで歌われているのが、本作の主題歌「かえせ!太陽を」です。

 

坂野監督自身が作詞を手がけたこの曲では、水銀、コバルト、カドミウミといった汚染物質の名前が列挙されており、公害を引き起こした社会への怒りが露骨に表現されています。メロディー・ラインは明るくキャッチーですが、そこに乗せられた言葉は実に社会的で真摯なものでした。


このライヴ・シーンでは酩酊している行夫が辺りを見渡すと、周囲の人間の顔が一様に奇形魚の頭部へとすり替わっているというショック描写があります。これはもちろん彼の幻視なのですが、ここで行夫が単なる酔っぱらいではなく、クスリでラリッていることが暗示されており、今なお語り種となっています。

 

また「アングラ」のステージでは、まるでカラフルなアメーバがうごめいているかのようなサイケ調のライト演出がなされていますが、これは藤本晴美さんという女性ライト・アーティストが手がけたもの。2枚のアクリル板の間にアルコール、原色のインク数種、サラダオイルなどを入れ、リズムに合わせて手で動かし、強い光を当ててプロジェクターで投影する──という非常にアナログな手法で撮影されたものです。この幻想的なライティングも相まって、「アングラ」の場面は劇中随一のサイケデリックなシークエンスとなりました。


さて、ここで注目したいのが、ミキのバック・バンドにいるギタリストの演奏です。彼には特に役名もなく、どなたが演じていたのかもわかりません。また、音源の方で実際にギターを演奏したミュージシャンも、手元にある資料には記載がありませんでした。ただ、『映画芸術』誌の451号に寄稿された田中雄二氏のコラム「眞鍋作品の織り連なる軌跡をいま改めて確認する」(註:眞鍋とは『ゴジラ対ヘドラ』の音楽を手がけた作曲家の眞鍋理一郎)によれば、レコーディングに参加したのはアーティストの水谷公生ではないかという指摘があります(水谷氏は、キャンディーズなど人気アーティストの作品で、辣腕を振るった職人ギタリスト。作曲家・編曲家としても数多くのヒット曲に携わる)。


それはともかく、「アングラ」におけるライヴ・シーンはゴジラ作品において初めてハードなエレクトリック・ギターのいななきが聴けたという点で、少なくとも僕自身にとっては忘れ難い、記憶に刻まれた場面となりました。基本的にゴジラ映画の劇伴というのは、巨星・伊福部昭によるおなじみのテーマ曲を始めとして、各パートの演奏がしっかり設計された(アドリブの余地がない)楽曲が大部分を占めています。そんな中、楽譜に縛られない即興的(刹那的といってもいえる)で荒れ狂うギター演奏が劇中に流れる『ゴジラ対ヘドラ』は、その点において凄まじくユニークなのです。


本作が公開された1970年代初頭は、日本のロック史にとって過渡期でした。1960年代の終わりにGS(グループ・サウンズ)のムーブメントが収束していき、1970年にはRCサクセションはっぴいえんどフラワー・トラベリン・バンドといった、その後の国内ロック・シーンを牽引する重要バンドがデビュー。

 

またこの年の7月、1969年にニューヨーク州で開催されたウッドストック・フェスティバル(正式名称はWoodstock Music and Art Festival)の記録映画が公開されました。その中で火を噴くかのごとき鮮烈なギター演奏を聴かせ、泥沼化するベトナム戦争への痛烈な反対声明を音楽で表したジミ・ヘンドリックスの姿は、多寡の差はあれど、間違いなく当時のミュージシャン、わけてもギタリストに衝撃を与えたのです。


そうして日本の音楽文化が大いに刺激を受けている時代に、『ゴジラ対ヘドラ』は作られました。これは想像の域を出ませんが──しかし、その音を聴く限りにおいて、本作のギター演奏にはウッドストックを介して日本に流入してきたヘンドリックスの反骨の血が、みなぎっているように感じられます。


ちなみに、『ゴジラ対ヘドラ』の劇伴のレコーディングにおいてどんな機材が使われたのか知る由もありませんが、ワウ・ペダルというエフェクターは確実に使用されています。ワウは、ペダルを足の操作により開閉することで、その名の通り「ワウワウ」というニュアンスのギター・サウンドが得られます。ギター弾きの方には説明するまでもない定番機材なのですが、その方面の話しに明るくない人にはピンとこないでしょう。邦楽でいうと、ウルフルズの「ガッツだぜ!!」のイントロなどがワウを使った有名なフレーズでしょうか。とにかく、ジャンルを問わず活躍してきたエフェクターなのです。


ゴジラ対ヘドラ』では、「アングラ」のライヴ・シーン以外にもう一ヵ所、ワウ・ギターを堪能できるシーンがあります。映画の終盤、行夫とミキたちが富士の裾野で開催した「公害反対!! 100万人ゴーゴー」の場面です。“100万人”と謳いながら、実際に集まったのは1万分の1の100人。荒野に座り込んだ若者たちは、行夫の奏でる悲しげなアコースティック・ギターの音色を聴きながら、何をするわけでもなくボーッとしています。

 

すると、出し抜けにジャーンと威勢よくギターをストロークした行夫が、「しょぼくれたって仕方ない。歌おう、みんな!踊ろう、みんな!せめて、俺たちのエネルギーをぶちまけよう!」と半ばやけくそ気味に叫び、ここからハードなロックの演奏がスタート。仲間達も一斉に立ち上がり、音楽にのせて踊り狂います。


ここで演奏されているのは、サントラ盤で「俺たちのエネルギー」というタイトルが付けられたインストゥルメンタル(ヴォーカルのない楽器演奏のみの曲)です。同曲は常時ワウを踏みながらプレイされるギターが、徹頭徹尾テンションの高いサウンドを聴かせています。こんな荒野のど真ん中で、果たしてアンプを稼働させるための電力はどこから供給されているのか?と疑問が湧いてこないでもないのですが、そんな些細なことは関係ねえ!とばかりに、アドリブでガンガンに弾きまくっているわけです。ゴジラ映画を見ていて、まさかこれほどまでに狂ったギター描写が拝めるなんて、いったい誰が予想していたでしょうか!


ちなみに、驚くことに、100万人…もとい100人ゴーゴーの最中に現れたヘドラの必殺ヘドロ弾によって、行夫はあっけなく絶命してしまいます。興味深いのは、その死をとらえたカットの演出は非常にドライで淡々としているばかりか、その惨状を目撃していたミキと研少年(行夫の甥っ子)が、悲しんだりといった反応を一切示さないことです。2人よりも、映画を観ている我々の方がよっぽど行夫の死に心を痛めている…そう思えるくらい、ミキと研少年、および映画の作り手たちは彼の最期に対して超ドライな態度を貫いている。これについて、坂野監督は次のように語っています。

 

ゴジラ対ヘドラ』はヘドラの生態と成長を克明に描いていく。人間はそれを受けて動いて、ことさら心の動きは描かれない。人物は重要ではなくて、だから主人公の男にも、ヘドロを浴びせて簡単に殺してしまった。『別冊映画秘宝 特撮秘宝vol.4』(洋泉社刊)坂野義光インタビューより


映画の主人公はあくまでヘドラと、それに立ち向かうゴジラであり、彼らをエモーショナルに描くこそすれ、背景にある人間模様はことさら感傷的に描く必要はなかった。たしかに、人間側のドラマを丁寧に描いていったとしたら、物語のスピードは減じて冗長になり、映画の勢いが著しく削がれていたことでしょう。『コマンドー』級の死に対するドライな態度は、実に理にかなったものだったわけですね。


閑話休題。とにかく『ゴジラ対ヘドラ』は、シリーズ最“狂”のぶっ飛び映画であると同時に、サイケなロック・ギター描写を取り入れた唯一のゴジラ作品でもあるわけです。というわけで、もし今後ヘドラが登場する新たな作品が作られるのであれば、本作に勝るとも劣らない実験精神と挑戦的マインド、そして何よりクレイジーなギター描写があることを願って止みません。いや、なければならぬ! それがヘドラ映画の要諦なのだから!!

怖いゴジラが見たい

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恐怖! 白目ゴジラに震えた!!

本ブログのタイトルAll-Out ATTACKは、わたしにとってのベスト怪獣映画のひとつである『ゴジラモスラキングギドラ 大怪獣総攻撃』(2001年/以下『GMK』)から名前を頂戴しました。

 

同作は平成ガメラ三部作を手がけた金子修介監督による待望の初(そして今のところ唯一の)ゴジラ作品であり、1999年から2004年にかけて公開されたいわゆる“ミレニアム・シリーズ”で最も興行的成功を収めた作品です。


もうとにかく「たまらん」としか言いようのない、古今無双の大怪獣バトル・ムービーなのですが、この映画を最高たらしめている大事な要素のひとつが“白目”でございましょう。『GMK』のゴジラの眼球には、中心に虹彩・瞳孔がありません。シリーズ唯一の白目ゴジラなのです。

 

これは同作の怪獣造形を担当した品田冬樹氏によるアイデアで、ゴジラを徹底的に“怖いもの”として位置づける上で、非常に効果的でした。もちろん、それ以前もゴジラは恐怖の存在として描かれています。そうでない作品もありますが、少なくとも初代『ゴジラ』(1954年)から『モスラ対ゴジラ』(1964年)あたりまでの昭和シリーズ初期、『ゴジラ』(1984年)と『ゴジラVSビオランテ』(1989年)から『ゴジラVSデストロイア』(1995年)までのVSシリーズ、そしてミレニアム・シリーズにおいては、人類の生存を脅かす恐怖の存在/異物として描かれていることは論をまたないでしょう。

しかし、『GMK』以前のゴジラは“感情を有する生き物”という側面が垣間見えることも少なくなく、我々は彼の闘争心、苦しみ、憎しみ、悲しみをスクリーン越しに感じ取ることができました。


翻って、『GMK』のゴジラは、白目であるが故に感情を読み取ることが非常に困難です。その咆哮や身振りから多少なりともエモーションを感じることはできますが、それでも、『GMK』以前のゴジラに対して抱いていたある種のシンパシーのようなものは生じづらいと言わざるを得ません。白目が抱かせる直感的な恐怖がゴジラへの感情移入を阻むことで、「この世のものとは思えない、とんでもないヤツが日常に現れてしまった」という怪獣映画における醍醐味を、より増幅させることに成功しているのです。

 

また『GMK』ゴジラは、その出自の設定についても斬新で、水爆実験の影響で変異した巨大な海洋生物という従来の基本設定に、太平洋戦争で犠牲となった人々の残留思念=怨念が宿っている、という説明を加えています。だから、砲弾を受けても死なないのだと…。

 

これはもはやオカルト的な理屈で、荒唐無稽であることも否めないのですが、本シリーズが怪獣映画の形を借りて空襲の恐怖を描き、日本が蹂躙される痛みを活写した初代『ゴジラ』から始まっていることを踏まえると、非常に腑に落ちるところがあります。

 

戦争という災禍を忘れようとしている日本を、戦死者の亡霊が怪獣となって太平洋から攻めてくる。それがいくらオカルト的であり荒唐無稽な話であっても、戦争の恐怖の化身でもあるゴジラの歴史的文脈においては、妙な説得力を帯びてくるのです。そして、この設定は白目がもたらす直感的な恐怖と相まって、『GMK』ゴジラをかつてないほど恐ろしい存在たらしめました。


徹底してゴジラを“異物”として描いた『シン・ゴジラ

こうして『GMK』によってアップデートされた人類の生存を脅かす恐怖の存在/異物というゴジラ像は、『シン・ゴジラ』(2016年)でさらに深化し、極限に達します。


シン・ゴジラ』の革新的な点のひとつとして、ゴジラの造形にグロテスクさを加味したことは見逃せません。体液をまき散らしながら車や家屋を蹴散らしていく第2形態は言わずもがな、一般的なゴジラのフォルムを持つ第4形態も 、えも言われぬ異様さを漂わせています。赤くただれたような皮膚、どこを見ているのか判然としない空虚な瞳。尻尾は不気味なほど長く、先端がまるで『ザ・グリード』(1998年)に出てくる化け物みたいで、生理的に嫌悪感を感じざるを得ない。

 

こんな異常なゴジラの造形は、かつてありませんでした。慣れ親しんだゴジラと、こいつは明らかに異なっている。似ているようで、何かが決定的に違う。それによって、我々は反射的に恐怖を抱いてしまう。この異物に接する感覚は、総監督・脚本を手がけた庵野秀明氏の代表作『新世紀エヴァンゲリオン』シリーズに登場する使徒や、『ガメラ3 邪神<イリス>覚醒』(1999年)の敵怪獣イリスにも通じるところがあります。


そんな『シン・ゴジラ』において最も恐怖を掻き立てられるのは、第4形態が鎌倉に上陸してから東京に侵入し、放射熱線によって首都を焼き尽すまでの第2幕でしょう。このシークエンスで注目したいのが、ゴジラが上陸してからアメリカ空軍の戦闘機によるミサイル攻撃を食らうまでの間、一切熱線を吐かなければ鳴き声も上げていないという点です。

 

それまでのゴジラ映画では、登場とともに雄叫びをあげるのが定番であり、その度に観客も「いよっ!待ってました!」と(心の中で)快哉を叫んでいたことと思います。しかし、鎌倉に上陸した第4形態は、どれだけ自衛隊から大砲やミサイルを浴びせられようと、全くリアクションを起こさず、ひたすら無心に東京めがけて前進するだけです。おそらくそれまでのゴジラ映画であれば、少なくとも自衛隊との攻防で、怒りの咆哮を放ち、熱線の一発でもお見舞いしたことでしょう。


この演出による効果は大きく2つあると思っていて、ひとつは熱線の発動を引っぱることで中盤の首都壊滅シーンにおける(劇中の人物達、観客双方の)絶望感をグッと高めること。もうひとつは、先述した「この世のものならざる、とんでもないヤツが日常に現れてしまった」という恐怖を、これでもかというくらい増幅させることです。生き物であるはずなのに、どれだけ火力を注ぎ込んでも全く動じない。なぜ東京を目指すのか、目的がまるでわからない。絶対的に交信不能な、高層ビルよりもデカい巨大な何かが、まるで人間やその社会など眼中にないかのように、ひたすら迫ってくる。この恐怖たるや…。本当にこの第2幕は、本作の白眉だと思います。


シン・ゴジラ』が空前のヒットとなった背景には、こうした恐怖のゴジラに飢えていた渇望感が、ファンの中に蓄積していたことも少なからず関係していると考えています。(もちろん、老若男女を問わず幅広い客層を巻き込んだことなど、その要因は様々です)。

 

ゴジラ生誕50周年のタイミングで、一旦シリーズに終止符を打った『ゴジラ FINAL WARS』(2004年)は、昭和期の子ども向け路線から平成期まで、あらゆる時代のゴジラ映画のイメージを総括したような、愉快で痛快なバトル・ムービーでした。そのため、徹底的に人類と対峙する恐ろしいゴジラを期待したファンにとっては、どこか満たされない作品になってしまったのも事実だと思います(僕もその一人です)。

 

それから10年が経ち、ゴジラはまさかのハリウッドで復活を果たしました。それが、ギャレス・エドワーズ監督がメガホンをとった2014年の『GODZILLA ゴジラ』です。初めてアメリカ資本で制作されたゴジラ映画(1998年のローランド・エメリッヒ監督版)では前傾姿勢で恐竜のように街を激走する独特のゴジラ描写が、オリジナルを愛する国内外のファンから大いに叩かれました(僕自身はエメゴジは嫌いになれず、むしろ好きです)。

 

一方、ギャレス版『ゴジラ』は、やはり賛否が分かれたものの、1998年版に比べれば多くのファンを納得させることに成功。興行的にも世界で5億ドル以上を稼ぎ出し、ゴジラが今なお国際的に通用するポップ・アイコンであることを証明したのです。ただ、多くの方が言及している通り、このギャレス版のゴジラは人類の脅威ではなく、平成ガメラに近いポジション──つまり“ガーディアン・オブ・ユニバース”として描かれていました(他ならぬ金子修介監督ご自身も指摘しています)。人類を脅かすのはもっぱら敵怪獣ムートーで、ゴジラはムートーが乱した生態系のバランスを取り戻す自然界の守護神として位置づけられています。


この描き方自体には全くケチをつけるつもりはありません(ゴジラではなく主にムートーが物語の推進力を生み出している点は、かなり問題だとは思いますが…)。ただ、当初の予告では敵怪獣の存在が伏せられていたこともあり、ゴジラが世界の秩序を揺さぶる一大スペクタクルが観られる!と期待せずにはいられませんでした。


ところが、蓋を開けてみると、結局ゴジラ津波を引き起こしてハワイに被害を与えたり、建物をぶっ倒したりと物理的には大暴れしてくれましたが、物語の立ち位置的には“秩序を守る”もしくは“取り戻す”側にいたのです。その点には、正直なところ物足りなさを感じてしまいました。たぶんそう感じたのは、僕だけでないと思います。つまり、『ゴジラ FINAL WARS』で鬱積した恐怖のゴジラへの渇望感は、ギャレス版『ゴジラ』が公開してもなお、満たされないままだったのです。だからこそ、『シン・ゴジラ』が人間社会の秩序をぶち壊す“異物”としてゴジラを徹底的に描ききったことで、多くのファンが熱狂できたのではないでしょうか。


ギャレス版『ゴジラ』が嚆矢となり始まった“モンスターバース”シリーズ(2017年『キング・コング:髑髏島の巨神』、2019年『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』、2021年公開予定『Godzilla vs. Kong』)では、引き続き”ガーディアン・オブ・ユニバース”としてのゴジラが活躍し続けます。それを追うのは無論楽しいし、ハリウッドが本気でゴジラを作り続けているという事実だけでも、興奮せざるを得ません。


しかし、『GMK』や『シン・ゴジラ』の血を受け継ぐ新しい恐怖のゴジラを求める気持ちは、日増しに強くなりばかりです。現在、東宝内でどんな企画が進行しているのか知る由もありませんが、それが白目ゴジラの血を引く恐怖の怪獣王映画であることを祈って、首を長くして待つほかありません。

 

本記事は2020年7月1日にnoteで公開した文章を修正したものです。

エメゴジ讃歌[後編]ここがダメだよトライスター版ゴジラ

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トライスター版『ゴジラ
(1998年)、通称エメゴジへの不当な評価に対抗するべく同作の美点について考えてみた【前編】に続き、後編では、逆にエメゴジの「ここは残念だった」というポイントを指摘してみたいと思います。というのも、作品のいいところだけ見て「この映画はなんて素晴らしいんだ!」というのは、自国にとって都合の悪い事実には盲目的になったり、歴史改変したりするエセ愛国者のようで気持ちが悪いからです。


エメゴジをどれだけ擁護しようとも、「ここはどうなの…?」と思わず眉をひそめてしまう点があるのは否めません。特に問題だと思うのは終盤の展開です。つまり、200頭を超える腹ぺこベビーゴジラが跋扈するマジソン・スクエア・ガーデンからの脱出劇と、その後の主人公たちがタクシーに乗って親ゴジラから逃げ回るシークエンスに、トライスター版『ゴジラ』の瑕疵が集約していると考えています。


これらの場面はありていに言えば、『ジュラシック・パーク』の二番煎じでしかありません。しかも、マジソン・スクエア・ガーデンの脱出劇では、フィリップの部下が餌食となるくだりが4人分(似たような襲われ方で)繰り返されるため、かなり冗長に感じます。さらにいうと、ニック、フィリップ、オードリー(ニックの元恋人)、アニマル(オードリーの仕事仲間)という4人がまんまと生き残り、フィリップの部下全員がきっちり残らず餌食となるというのは、あまりに安直すぎやしないかい?とも思います。ベビーゴジラの食人シーン(とはいっても、直接的なゴア描写はなし)をやりたいがために登場させられたとしか思えない、4人が不憫でならない…合掌。


ちなみに、このベビーゴジラという存在もエメゴジ否定派の的にされがちですが、ゴジラが繁殖するという設定自体はことさらに批判する理由はないと思います。もし、この無性生殖設定を否定するのであれば、『シン・ゴジラ』(2016年)の第5形態だってダメじゃないか、という話にもなりますし…。


また、前編で述べた「ゴジラ=犠牲者」という話にもつながりますが、生き物としての営みを全うしたかっただけのゴジラが、核実験の影響で生まれた新種であるにもかかわらず、その核兵器を作った人間の都合で排除されてしまうという悲劇性が、ベビーゴジラの存在によってより際立つとも思います。ただ子育てしたかっただけなのに、親子共々殺されてしまった…と。なんだかグレムリンみたいに小生意気で愛らしいベビーたちが焼き殺されてしまうのは、なかなか辛いものがあるじゃないですか…ねえ。


それはともなく、本題に戻りましょう。ゴジラがタクシーを追っかけ回すくだりに至っては、『インデペンデンス・デイ:リサージェンス』でも見られた“事態の矮小化”に他ならず、作品そのものやゴジラ自身の存在のスケール感を大きく減じてしまっていると思います。また、振り返ってみると、マジソン・スクエア・ガーデンからこのタクシー逃走劇にいたるまで、ニックたちはずっと逃げているだけなんですよね。これではドラマ性が弛緩してしまうし、どうしても長ったらしく感じざるを得ない。エメゴジの上映時間は、日米両方のゴジラ・シリーズの全作品中、最も長い2時間18分です。本作のストーリーを語る上で、これほどの尺が必要だったとは思えません。であれば、終盤の展開をもっとタイトにして、2時間くらいに収めるのが妥当だったような気がします。


たとえば、ベビーゴジラをああいった獰猛なキャラクターで人を襲ったりしない、『ゴジラVSメカゴジラ』(1993年)のベビーのように大人しくて愛らしい幼体として描いていたら、どうだったでしょうか。ニックたちは恐らく、抹殺するのをためらったのではないかと思います。しかし、いずれすべての幼体が長じて、親と同等の巨体を手にすれば、人類にとって驚異となるのは言うまでもありません。となれば、ニックの意思がどうあれ、映画と同様、軍によって殲滅されるという筋書きは変えようがないでしょう。しかし、無垢な幼い生命を虐殺したという人間側の罪悪感は、映画で描かれているより何倍も膨張したはずですし、ニックたちの心情的な葛藤も生まれる。


加えて、映画の終わり方についても思い切って考えてみると、やはり親ゴジラがタクシーを追いかけ回すくだりは、なかった方が良いと思います。そうではなく、子ども達の無惨な姿を目の当たりにしたゴジラが、全く気力をなくしてしまい、その場で抜け殻のように動かなくなるという展開はどうでしょうか。そこへベビーゴジラたちを抹殺したF18戦闘機が再び飛来し、赤ん坊の亡骸を前に呆然とするゴジラへ向かって容赦なくミサイルを打ち込むのです。もはや生きる意思をなくしたゴジラは抵抗することもなく、断末魔をあげて事切れる。その姿を見つめるニックのえも言われぬ表情をとらえて、映画は終わる…。


なんとも後味の悪いエンディングですが、こういった感じで締めくくった方が、本来エメゴジが内包していたゴジラ=犠牲者という要素を、より強調する形で幕引きができたのではないでしょうか。もちろん、これは素人の妄想に過ぎないので、作劇のプロからすればナンセンスな物語構成なのかもしれませんが…。エメリッヒとデブリンもそんなことはもちろん検討済みだった、ということも十分にあり得ます。


ちなみに、今回のゴジラは魚を摂取するという特徴があります。映画の中で、ゴジラがマグロを漁っていたのは「子どもに食べさせるため」だと説明されていましたが、日本のゴジラのように放射能がエネルギー源ではない以上、当然親も食物から栄養を得て生きているのでしょう。そうなると、必然的に排泄物が生じます。


何が言いたいかというと、せっかく生物としての側面をエメゴジでは強調していたのだから、思い切ってゴジラの排泄物を描くのもありだったんじゃないか、ということです。たとえば、『ガメラ 大怪獣空中決戦』には主人公がギャオスのペレットに手を突っ込んで、調査する場面があるじゃないですか。ペレットは口から戻す未消化物だそうで、ウ○コとは違いますが、同じようにゴジラの排泄物をリサーチするシーンがあったら、それはそれで非常に興味深い場面になったのではないかと思います。


もちろん、「ウ○コをするゴジラなんて、けしからん!」とファンから猛烈な怒りを買うことは火を見るよりも明らかですが、どうせ炎上するのなら、とことん怒らせるのも良かったんじゃないでしょうか。「史上はじめてゴジラのウ○コを描いた映画」として、長らく人々の記憶に残ることもできたでしょう──すみません、話しが大きく逸れました。


ともかく、結論をまとめますと、マジソン・スクエア・ガーデン以降の無駄なシーンを省いてもっとタイトにまとめていれば、エメゴジはもっといい出来になったはずだ!です。文章が進むにしたがって、独りよがりの妄想と汚い話に偏ってしまったことを、最後にお詫び申し上げます。

エメゴジ讃歌[前編]トライスター版ゴジラを侮るべからず!

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ローランド・エメリッヒといえば『インデペンデンス・デイ』(1996年)とその悪名高き続編『インデペンデス・デイ:リサージェンス』(2016年)、『デイ・アフター・トゥモロー』(2004年)、『2012』(2009年)などの超絶ディザスター・ムービーが特に有名ですが、彼のフィルモグラフィーの中で忘れてはいけないのが、1998年公開の『ゴジラであります(エメリッヒは監督・脚本・エグゼクティブ・プロデューサーでクレジット)。


我らが怪獣王をトライスター・ピクチャーズがリメイクした、初のアメリカ資本によるゴジラ映画なわけですが、本作のゴジラはフランスがポリネシア海域でおこなった水爆実験の影響で生まれた新種の生命体という設定で、まるで『ジュラシック・パーク』のTレックスよろしく前傾姿勢でニューヨークを爆走(時速480kmという新幹線クラスの瞬発力!)。おまけに無性生殖が可能で、一度に200個以上の卵を産むという、本家東宝版のイメージとはかけ離れた、陳腐な言い方をすれば怪獣というよりも“クリーチャー感”が漂うモンスターでした。


今さらいうまでもなく、この驚くべきゴジラの描き方は賛否両論──というより、多くのゴジラ・ファンの怒りを買い、映画全体が軽妙なタッチの(コメディともとれる)ドラマだったことも相まって、批評的には散々な結果に終わります。レビュー・サイトをのぞいてみると、そこにはもちろん擁護派の意見も散見されるものの、「こんなのゴジラじゃない!」「駄作!」「クソ映画!」といった罵詈雑言や、エメリッヒに対する心ない非難の声が飛び交っている状況です。


そういった言葉の数々を目にするたびに、僕は悲しい気持ちになります。エメリッヒの『ゴジラ』は、はたしてそれほどの罵声を浴びせられるほどひどい映画なのでしょうか?


断じて、そんなことはないと思います。


決して全面的に褒められる映画ではないし、「これはどうなの?」と首を傾げざるを得ないところもたしかにある。
しかし、これからゴジラ・シリーズにはじめて触れようとしている方々が、ネットのレビューを見て、「1998年のゴジラって駄作なんでしょ?」「ファンからゴジラって認められていないんでしょ?」「つまらないんでしょ?」みたいな先入観を抱き、エメゴジを避けるようなことがあったとしたら、それは非常に由々しき事態です。そんな唾棄すべき悪評に対抗するべく、これから全力でエメゴジのいいところを愛でていきたいと思います。

 

 

①チラ見せの美学

映画が始まってから約20分間は、太平洋に突如出現した巨大な“何か”の一部や痕跡──たとえば漁船に叩き付けられる尻尾、海底から轟く鳴き声、タンカーについた巨大な爪痕などをちょっとずつ見せる、“チラ見せ”的な手法でその存在を仄めかしていきます。これは1954年の初代『ゴジラ』にも通じる、観客の期待や不安を煽るためのモンスター映画の王道的演出と言えるでしょう。


わけても出色の出来映えだと思うのは、パナマのサン・ミゲル湾にある小さな村で主人公の生物学者:ニック・タトプロスがはじめて“何か”の痕跡と遭遇するシーンです。ゴジラを追う米軍の司令官ヒックス大佐に連れられて、被災した村に降り立ったニックは、一見何の変哲もない更地で「ここがサンプルだ。調べろ」といわれます。「何もないけど?」とニックは返しますが、自身が巨大な生き物の足跡の中に立っていることに気づき、仰天。彼が「何もないけど?」と訝しがっている様子をとらえたカメラが引いていくと、ニックが足跡に気づくのと同時に、観客もまたそこが足跡の中であったことを知るという構造になっており、非常に巧妙なカメラワークだなと感心します。


このパナマのシークエンスは、道に沿って足跡が続いている様子を上空から捉えた俯瞰的なショットで終わるのですが、ここからクロスフェードする形でニューヨークの街道をとらえたシーンへとつながっていきます。“何か”の足跡が残された道と、大都会のストリートが重なる。つまりここは、ニューヨークの街中を“何か”が闊歩するという未来を暗示しているわけです。実に映画的で、よく練られたつなぎ方ですよね。


こういったモンスター映画の王道的手法と巧みな見せ方で観客をグイグイと作品の世界に引き込んで行く冒頭20分は、テンポも軽快で、何度見返しても飽きないし、ワクワクさせられます。


②徹底した人間視点の描写

ついに巨大な“何か”=ゴジラがニューヨークに上陸をはたすシークエンスでは、多少の例外はあるものの、基本的に人間の視点にたったカメラワークがなされています。そのため、満を持して現れたゴジラではありますが、スクリーンに映し出されるのはほとんど彼の足です。とんでもなくデカい2本の足が逃げ惑う市民を踏み潰しながら、ニューヨークをズシンズシンと揺るがす様が、人間の視点から描かれていくわけです。それによって、観客に強烈な臨場感をおぼえさせることに成功していると思います。


もちろん国産のゴジラ映画にも、地上の人々から見た怪獣襲撃シーンというのはありました。しかし、エメゴジほど長い尺を割いて、ここまでリアルな画で見せたものはなかったでしょう。これは間違いなく、東宝ゴジラにはできなかった、ハリウッドならではの映像表現だったと言えるのではないでしょうか。


ちなみに、全く話は逸れますが、予告編にも使われた桟橋で釣りをしているおじいちゃんの竿を、ゴジラが海中に引きずり込むシーンがあるじゃないですか。あそこは何遍見ても、あの釣り糸の長さでは結構沖の方にいるっぽいゴジラに引っかかるのって不可能に思えるんですが…。もし、この場面をきちんと説明できる方がいらっしゃいましたら、ぜひご教示ください。閑話休題

 

③驚異の感覚

これは有名な話ですが、エメリッヒとプロデューサー・脚本のディーン・デブリンによって『ゴジラ』の製作が本格的に始動するまでは、かなり紆余曲折がありました。ゴジラのハリウッド化は1980年代の終わりからプロジェクトがスタートしており、ジェームズ・キャメロンティム・バートンといったヒット・メーカーの名前が監督候補に上がったこともありましたが、いずれも実現には至りません(集英社刊の『ゴジラ映画クロニクル 1954〜1998 ゴジラ・デイズ』によると、1993年2月にはテリー・ギリアムが監督に決定したという報道もあったそうな)。


そして、1994年にヤン・デ・ボンが監督に決定し、具体的な製作がスタート。がしかし、こちらも結局は頓挫してしまいます。その背景には予算的な問題などもありましたが、ゴジラが魅力的なムービー・スターでありモンスター・アイコンでもある反面、東宝のオリジナル版のイメージが強過ぎるあまり、ハリウッド大作としてリメイクすることがいかに困難なことであったかを物語っているでしょう。一流の映画人たちが二の足を踏み続けるほど、ハリウッド版ゴジラはリスクの高い企画だったわけです。


デ・ボンが降板した後、トライスターは遂にエメリッヒ&デブリンのコンビにアプローチをかけます。2人は当時、『インデペンデンス・デイ』を製作している最中でした。2人は当初、これまでの監督たちと同様、オファーに対して難色を示します。エメリッヒ曰く、4回は断ったそうです。

 

「『ゴジラ』の難しさは、みんな懐古的な興味を示す反面、真剣には考えてくれない点だ。(アメリカのイメージでは)僕らが扱うにはキッチュすぎる題材のように思えたんだ。そこで、どうしたら『ゴジラ』を作り直せるのか? そこから可能性を探ったんだ」
(劇場パンフレット「MAKING THE MOVIE 1」掲載のデブリンの発言)


その可能性を探るべく、2人は『インデペンデンス・デイ』のエイリアンなどを手がけたパトリック・タトプロスに、新しいゴジラのデザインを依頼。彼は、「とてつもなく機敏に動きまわる、呼吸している生物」という条件だけ与えられ、ゴジラの新たな姿を模索しました。

 

タトプロスは「今の仕事を志すきっかけとなった怪獣を作り直すことは、最初のうちは冒涜に思えて」なかなかオリジナルから離れられなかった。そんな彼に強力なインスピレーションを与えてくれたのはなんとワニだった。
(劇場パンフレット「MAKING THE MOVIE 1」より)


こうしてタトプロスは、『エイリアン』のビッグチャップの身体に獰猛な爬虫類の顔がくっついたような、かつてないゴジラを創造しました。この時のデザインは、背びれの配列など細かい違いがあるものの、ほぼ完成型だったと言えます。このタトプロスの斬新なデザインを見て、エメリッヒとデブリンは自分たちのゴジラ映画を作るとを決心したそうです。(ちなみに、日本語版ウィキペディアには「恐竜の復元図を元にしている」という記述がありますが、パンフレットの解説によれば、タトプロスは製作の過程で「恐竜図鑑を見たことは一度もなかった」と断言しています)


こうして生まれたエメゴジは、ずっしりとしたオリジナル・ゴジラの造形とあまりにかけ離れていることから、何かと槍玉に挙げられています。しかし、日本のゴジラとは一線を画したその造形によって、エメゴジには初代『ゴジラ』が持っていた、ある種の新鮮な感覚を取り戻すことができたと考えます。それは、「こんなとんでもない生き物が、この世界にいたなんて…!」という、未知との遭遇で呼び起こされる驚異の感覚です。

 

オリジナルの部分部分をいじるより、まったく新しいものを作り出した方が初期のスピリットに忠実でいられると解ったんだ。
(劇場パンフレット ディーン・デブリンの発言より)


初代『ゴジラ』においては、誰もが見たこともない恐竜のような化け物をスクリーンに登場させ、観客の度肝を抜いてやろうという製作者達の意欲が迸っているように思います。その精神に則るのであれば、日本のゴジラをただ模倣するのではなく、独自のゴジラ像を打ち出して観客を驚かそうとしたエメリッヒ&デブリンの判断は、実に誠実だったといえるのではないでしょうか。


④文明から拒絶された被害者

【注】ネタバレしますので、映画を未見の方はご注意ください(といいつつ、終わり方を知っていてもたぶん映画の面白さに影響はないので、読んでもらっても問題ないと思います)。


映画の結末を言ってしまうと、ゴジラマジソン・スクエア・ガーデンに自身が産みつけた卵から孵った200頭以上の赤ん坊をもれなく爆殺された挙げ句、F18戦闘機のミサイル攻撃を何発も喰らい、ブルックリン・ブリッジの上で悲劇的な死を遂げます。


核実験によって生まれた巨大生物が都市を襲い、最後は人間側の攻撃によって命を落とすという筋書きは、もちろん初代『ゴジラ』のそれをなぞるものですし、さらに言えば初代『ゴジラ』の元ネタである『原始怪獣現わる』(1953年)の構造とも一致します。これらに共通するのは、人類の暴挙によって人間の世界に踏み込まざるを得ない状況に追い込まれた生き物が、人間側の都合によって拒絶され、世界から排除されてしまった、ということです。簡単に言えば、ゴジラも『原始怪獣現わる』の恐竜リドサウルスも、人類の身勝手さの犠牲者なのです。


そういった側面を、エメゴジはしっかりと打ち出しています。核実験の影響によって望まない進化を強要されたゴジラは、ただ本能に従って繁殖のためにニューヨークへ向かいますが、そこで親子共々、抹殺されてしまう。軽いノリのドラマ展開ゆえ、そういった悲劇性は感じづらいですが、物語の構造的には間違いなくゴジラ=犠牲者という要素が根幹にあります。


それを踏まれれば、エメリッヒとデブリンたちスタッフは真摯にゴジラ映画を作ろうとしたし、作品にもそのスピリットはしっかりと宿っている。僕はそう思うわけです。

 

2018年、デブリンはアメリカのメディアSyfyの取材に応え、トライスター版『ゴジラ』について「大きな間違いが作品の根っこにあった」と振り返っています。

 

theriver.jp


ファンに対して不誠実なゴジラ映画だった。ゴジラ愛のないエメリッヒを起用したことは問題だった。自分たちの作ったものはゴジラではなかった。そういった趣旨の発言がなされています。当時、製作の中枢にいた人物がこのように振り返っている以上、トライスター版『ゴジラ』が失敗作というレッテルを貼られるのは、もはや致し方ない気もします。


しかし、それでもこれだけは言っておきたい。エメゴジはファンを喜ばせる映画としては失敗したかもしれないけれど、ゴジラ映画本来の精神に帰ったリメイクという点では、決して失敗なんかしていないよ、と。

 

さて、ここまでエメゴジをひたすら愛でてきたわけですが、前述したように、この映画にはダメなところもきっちりあるわけです。そこを無視しては、エメゴジを語ったことにはならんのではないかと思い、【後編】では「エメゴジのここが残念!」というポイントについて、あーだこーだ書いていきます。

 

本記事は2020年9月11日にnoteで公開したものです。

『博士と狂人』と『1984年』:言語破壊の邪悪さを考える

パソコンやインターネットもない時代──想像するに、情報の検索・収集・共有が今よりも遥かに多くの労力と時間を要する作業であった時代に、あらゆる言葉のあらゆる意味や使い方を網羅する辞書を編むという作業は、途方もなく長い苦難の道であったことだろう。筆舌に尽くしがたい忍耐と情熱が注がれたに違いない。


映画『博士と狂人』は、そんな果てしない辞典づくりの道程を描いた一作だ。その困難を映し出すことが必ずしもこの映画の主眼ではないが、間違いなくその片鱗をフィルムに焼き付けた一作だと言える。


本作の舞台は19世紀後半のイギリス。オックスフォード英語大辞典(OED)の編纂主幹を任された異端の言語学者ジェームズ・マレーと、精神病院の中から彼の仕事に協力し、世界最大の英語辞典完成に大きく寄与した殺人犯ウィリアム・マイナーの交流を描いている。


マレーは「古語も新語も廃語も俗語も外来語も生粋の英語も含むすべての単語とその変遷を収録する」(パンフレットから引用)という、かつてない壮大なプロジェクトに取りかかっていた。言葉の“変遷”を記録するためには、当然過去の文献にあたり、ある言葉がある時代にどのような使い方をされていたのか、自分たちの目で確かめなくてはならない。


この大仕事を成し遂げるため、彼は市井の人々に協力を求め、数世紀前から現在にいたるまでのあらゆる単語の用例(書物からの引用)を収集していく。それに必要な用例の数は言うまでもなく膨大で、マレーの辞書には183万もの引用文が収録されたという。それはあくまで最終的に収録された数であり、マレーたちが精査した用例の数はその倍どろこではないだろう。これだけとってみても、OEDの編纂がいかに地道で途方もない作業であったかが窺い知れる。


ここで、ジョージ・オーウェルの小説『一九八四年』を思い出してみたい。


ビッグ・ブラザーを首長とする<党>によって支配された巨大国家オセアニア。そこでは日々、<党>のドクトリンに背く思考犯罪者たちが“思考警察”の手によって拷問と絶望が巣食う“愛情省”へと送られ、<党>にとって都合の悪いありとあらゆる記録が役人によって改竄され続けていた。


この暗澹たる小説の世界に、主人公の友人であるサイムという人物が登場する。彼の仕事は、<党>が従来の英語に代わって普及させようとしている新たな言語体系ニュースピーク(Newspeak)の辞典の編集だ。


辞書を作るという点ではマレーもサイムも同じ仕事をしていると言えるが、その過程では全く正反対のことが為されている。というのも、サイムがやっていることは単語の多様な意味や用法を包括的に収集することではなく、<党>の支配において無駄だと判断された単語(とその意味)を抹消していくことだからだ。作中で彼は、次のように自分の仕事を説明している。

 

おそらく君はわれわれの主たる職務が新語の発明だと思っているだろう。ところがどっこい、われわれはことばを破壊しているんだ──何十、何百という単語を、毎日のようにね。─中略─言うまでもなく最大の無駄が見られるのは動詞と形容詞だが、名詞にも抹消すべきものが何百かはあるね。無駄なのは同義語ばかりじゃない。反義語だって無駄だ。つまるところ、ある単語の反対の意味を持つだけの単語にどんな存在意義があるというんだ。
『一九八四年』(訳:高橋和久早川書房刊)より

 


サイムの考え、いや、<党>の考えによれば、例えば「悪い」という形容詞は「良い」の反義語なのだから、「非良い」という言い方で代替でき、「素晴らしい」や「申し分ない」といった表現も、「超良い」で事足りる。したがって、「悪い」「素晴らしい」「申し分ない」といった形容詞は無駄であり、「良い」だけで表現することが可能だという。


また彼らは、言葉の持つ多彩なニュアンスをも奪い取り、それぞれが使われるシチュエーションを非常に限定したものにしようとしていた。その目的は、サイムの言葉ではっきりと記されている。

 

ニュースピークの目的は挙げて思考の範囲を狭めることにあるんだ。最終的には<思考犯罪>が文字通り不可能になるはずだ。何しろ思考を表現することばがなくなるわけだから。


<党>は言語を破壊することで、人々の考える力を削ぎ、思考を制約することで、反逆・異端・逸脱を根本的に不可能なものとし、その支配を確固たるものにしようとしていた。このように『一九八四年』における辞書編纂という仕事は、『博士と狂人』におけるそれとは目的からして180度違っている。


本来言葉とは、曖昧で複雑で面倒なものに違いない。なぜなら、それを使う我々人間が曖昧で複雑で面倒な存在であるからだ。人間の集まった社会も然りである。そんな難解極まりないものを表す言葉が、単純でいいはずがない。


だからこそマレーたちは、世界を正しく理解するための手助けとして、あらゆる言葉の事細かなニュアンスを集め、その変遷の歴史も含めて収録した大辞典を編纂しようとしていた。ところが、『一九八四年』の<党>はそういった言葉の多義性や歴史を消し去り、自身にとって都合の傀儡を作るために、意味を削ぎ落したニュースピークを作ろうとしていた。


この行為の野蛮さ、邪悪さ、醜悪さというのは、『博士と狂人』を経るとより鮮明になる。


映画の中盤、マイナーはこんなことを言う。

 

言葉の翼があれば、世界の果てまでだって飛んで行ける。


これはひとつの真理だ。言葉によって我々は自由に考え、自由に行動し、自由に物事を見ることができる。我々の言葉を壊したり制限しようとしたりするものがあるならば、それは我々の自由に対する冒涜だ。だから、ニュースピーク的な何かを絶対に許してはならない。『博士と狂人』を観て、そう強く思った。

 

DOWN WITH BIG BROTHER
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英書『1984』より

 

本記事は2020年12月7日にnoteで公開したものです。

『ランボー ラスト・ブラッド』阿鼻叫喚! 怒りの大復讐

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2019年秋、アメリカで『ランボー』シリーズの第5作にして完結編、ランボー ラスト・ブラッドが公開。その時点ではまだ日本公開が決まっておらず、数ヶ月経っても一向にアナウンスはありませんでした。日本では一体いつ観られるんだ…とやきもきしていると、いつの間にか本国で映像ソフトがリリースされてしまい、「これはもう我慢できん!」と昨年冬にBlu-ray個人輸入したわけであります。本音を言えば、一発目は劇場の巨大スクリーンで鑑賞したかったのですが、致し方ありません。


その後、2020年の2月になって遂に日本公開決定の一報が! いやあ、本当におめでたい、言祝ぐべきニュースでした。ところがその直後、新型コロナウイルス感染症の世界的流行により、公開が危ぶまれる事態になってしまったのです。しかし、当初の予定より2週間遅れたものの、『ラスト・ブラッド』は6月26日に無事封切られ、全国のスクリーンにその最後の勇姿が映し出されたのでした。


以下では、本作について思うところを書いていこうと思います。
【注】以下『ランボー ラスト・ブラッド』についてめちゃくちゃネタバレしています。


アメリカ版では削除された冒頭シーンの価値


まず、出だしからビックリしました。というのも、既にBlu-rayで『ラスト・ブラッド』を観ていたにもかかわらず、豪雨の中、山道で遭難したと思しきハイカーが鉄砲水に襲われる、見覚えのない物語が始まったからです。「まさか入る劇場を間違えのか…」と不安がよぎりましたが、最初にでかでかと『ランボー ラスト・ブラッド』の日本語タイトルが出てきたし、程なくして馬に乗ったスタローンが登場。ということは、まぎれもなく『ラスト・ブラッド』である。これは単に、アメリカで公開されたヴァージョンはこの冒頭のシーンなど数カ所がカットされており、日本公開版の方が12分ほど長い編集になっているだけのことでした。


このイントロダクションについて、もう少し詳しく紹介してみましょう。濁流が迫る山道に取り残された数人の男女を救助するため、ランボーは馬に乗って現場に駆けつけます。1人は何とか助けることができましたが、残りは鉄砲水にさらわれ、後で死体となって発見されました(正確にいうと、そのうち1人はランボーが到着した時点で既に絶命していました)。生存者を救急隊に預け、ランボーは馬にまたがり静かにその場を去ります。この去り際、保安官がランボーに礼を述べる場面があるのですが、その会話から我々観客は、ランボーがこれまでも度々人命救助に協力してきた事実を知ることができます。


ラスト・ブラッド』のランボーは故郷アリゾナの自宅で牧場を経営しており、古い友人であるマリアと、彼女の孫娘ガブリエラとともに平穏な生活を送っていました(ガブリエラとは養子縁組を結んでいます)。アメリカ版では上記した冒頭の人命救助シーンをバッサリ切り、このランボー、マリア、ガブリエラという3人の家族の日常からストーリーを語り始めています。この編集について、パンフレットに寄せられている映画評論家/ライターの尾崎一男氏のコラムには次のように書かれています。

 

スタローン自身が米「バラエティ」のインタビューで語ったところによれば「誰も泣きごとを言うヒーローなんて見たくないだろう」と、冒頭を説明的だと判断し、メインストーリーへの早い到達を優先したという(※)。
https://variety.com/2019/film/news/sylvester-stallone-rambo-last-blood-1203337054/
註:「泣きごと」というのは、ハイカーを全員助けられず、落ち込みながら帰宅したランボーを、マリアが励ます場面のことを指しているのだと思います。


冒頭のシーンを入れるとランボーの人物描写がくどくなり過ぎるので、あえてカットして本筋に近いところから映画を始めた、というのがスタローンの意図だったようです。たしかに、ここを削除しても『ラスト・ブラッド』の物語は十分成立しますし、いきなり本筋から入ることで物語のテンポ感も早まっていると感じます。ただ、これが本筋に対して蛇足、あるいは単にランボーの活躍を見せるためのサービス・カットだったかというと、決してそうではないと思います。


『最後の戦場』のエンディングで久々に故郷へ戻ってくるまで、ランボーは天涯孤独で、彼の心が穏やかだったことはありませんでした。それどころか、故郷に帰ってからもベトナムの悪夢は、彼を蝕み続けていたのです。牧場の地下にまるでベトナムの戦場を再現したかのような巨大なトンネルを掘ったり、そのトンネルで武器をこしらえたり、多量の精神安定剤を服用していたり、常人からすれば異常な行動をとり続けています。どれだけ年月が経とうとも、戦場という地獄が彼の心に刻んだ深い傷は、決して癒えることがなかったのです。


しかし、そんな傷をかかえながらも、マリアとガブリエラという家族に恵まれ、彼はやっと“人間らしさ”を取り戻すことができました。それだけでなく、ランボーは自らの意思で人命救助に参加し、保安官からも頼りにされる存在となっている。これは、帰るべき場所がなく根なし草のように世界をさまよい、社会から拒絶されていた一作目の『ランボー』の状態とはまるで正反対です。かつて自分を排除しようとした社会で、彼はとうとう自分の居場所を見つけることができた。


こうした『最後の戦場』以後の、映画では語られていないランボーの物語を、冒頭のシーンは少ない時間ながら我々に伝えてくれているような気がします。その意味において、人命救助のシーンには残されるべき価値があると思うわけです。


シリーズ最大の怒りが吹き出す阿鼻叫喚のクライマックス


今作の物語の本筋は非常に単純明快で、「父親による娘の仇討ち」です。ランボーにとって血のつながった娘同然の存在であるガブリエラは、メキシコにいる旧友ジゼルから、自分と母親(既にガンで他界)を見捨てた本当の父親の居場所を知らされます。

「なぜ私たちを捨てたのか?」そう直接本人に問いかけたい一心で、ランボーとマリアの反対も聞かず、彼女は単身メキシコへ。ところが、久々に再会した父親がガブリエラに投げかけた言葉は、「お前とお母さんは俺にとって邪魔者だった」という、あまりにも血の通っていない冷酷なものでした。


さらに悪いことに、親切にも父親の居場所を教えてくれたジゼルは、実はガブリエラの切なる思いなどには全く関心がなく、はじめから彼女をウーゴとビトのマルティネス兄弟が仕切る人身売買カルテルに売り飛ばすことが目的だったのです。ジゼルの思惑通り、ガブリエラは囚われの身となり、彼らの“商品”となってしまいます。


一方、行方不明となったガブリエラを探し出すためメキシコへやってきたランボーは、ジゼルを通じてガブリエラを買った男に接近。その男を捕まえて(このとき、素手で鎖骨を引き抜くという、常軌を逸したランボー流尋問術が炸裂!)、彼女がいる娼館へと案内させます。しかし、潜入しようとする途中で大勢の敵に囲まれてしまい、容赦ないリンチを受け、ランボーは瀕死の状態に。運良くカルメンというジャーナリスト──彼女もまた妹を組織にさらわれ、殺された過去を背負っていました──に救い出され、何とか命を取り留めます。


4日かけて動けるまでに回復したランボーは、娼館を急襲し、ついにガブリエラの奪還に成功。ところが幾度となくレイプされ、多量の薬物を打ち込まれた彼女の身体は既に満身創痍で、もはやその命は風前の灯火でした。ガブリエラはランボーの姿を確認し、安堵の涙を流しながら、アリゾナへ戻る道中で息を引き取ります。


ランボーに生きる意味と喜びを与えてくれた家族を、マルティネス兄弟は虫けら同然に扱い、精神的にも肉体的にも破壊し尽しました。これが引き金となり、ランボーは今一度心の奥底で眠っている殺人マシンを呼び覚まし、亡き娘のため組織に復讐を誓う…。以上が大雑把な話の流れです。


ここからランボーによる阿鼻叫喚の復讐劇が幕を開けるわけですが、シリーズ最大級の“怒り”が爆発するクライマックスは、ヴァイオレンスの華が一気に開花し、序盤〜中盤とは全く違う異様な空気をまとって突き進んでいきます。前作『最後の戦場』における酸鼻をきわめた戦場描写も暴力表現の極北と呼ぶべき凄まじいものでしたが、『ラスト・ブラッド』の終盤もそれに比肩する残虐描写がてんこもりです。

 

密かにメキシコに舞い戻ったランボーによって弟のビトを惨殺されたウーゴたちは、軍隊並の武装をして、アリゾナランボー宅を急襲します。しかし、そこにはトンネルのそこかしこにブービートラップを仕掛け、準備万端、殺気120%の鬼ランボーが待ち受けていました。ウーゴたちは数十人の軍団で、ランボーにとっては多勢に無勢のように思えますが、あまりにトラップが用意周到すぎて全く隙がなく、ウーゴの部下達はほとんど反撃する機会も与えられないまま、凄い勢いで殺されていきます。


それぞれのやられ方も凄まじく、爆死、焼死、銃殺、串刺し…等々、死に方のヴァリエーションには事欠きません。かのサノスですら攻略不可能なんじゃなかろうかというランボー流“超・戦慄迷宮”を前に、ウーゴ軍団はもはや怯えきっているようにすら見えます。トンネルはランボーが自ら作った擬似的なベトナムの戦場であり、彼の心の闇を象徴する場所でもあります。つまり、殺人マシンとしてのランボーが安住できるホームです。彼がその残虐性を遺憾なく発揮できるトンネルにまんまと誘いこまれた時点で、ウーゴたちに勝ち目はなかったといえるでしょう。


部下を全員失ったウーゴは、爆発によって崩れ落ちるトンネルから逃げ出し、地上の倉庫へとたどり着きますが、そこでランボーの放った弓矢によって四肢を射抜かれ、はりつけ状態に。身動きの取れないウーゴにランボーは「これが俺の味わった痛みだ」と言い放ち、彼の胸に短剣を突き刺して胸部を切り裂き、心臓を取り出します。辛い思いをすることを「胸が痛む」と表現しますが、それを大胆にもそのまま画にして見せるこの壮絶きわまりないシーンで、ランボーの復讐は幕を閉じたのでした。


このように、ウーゴ軍団が全滅する最後のシークエンスは、もはやスプラッター・ホラーの趣すらあります。自らの縄張りにやってきた人間を次々に狩っていく様は、ジェイソンが若者を殺してまわる『13日の金曜日』シリーズに近いような感じです(そういえば、ウーゴが心臓を引っぱり出された倉庫は、『13日の金曜日 PART3』のそれを思い起こさせます)。


すべてをやり遂げたランボーは、自宅の玄関の前に置かれたロッキング・チェアに腰掛け、牧場に目をやります。そこには、硝煙が漂い死体が散乱する、戦場としかいいようのない光景が広がっていました。故郷に戻り、心の安寧を取り戻したランボーでしたが、とどのつまり戦場に戻ってきてしまったのです。こうして、何とも筆舌に尽くし難い感慨を観客に抱かせて、映画は終わります。人生の終着点に差し掛かってもなお、戦いの中で生きることを迫られたジョン・ランボー。そんな彼を巡る理不尽な物語が持つ意味を、これからも考えていきたいと思います。

 

本記事は2020年7月3日にnoteで公開したものです。

『ランボー』スタローンが突きつけるベトナム帰還兵の怒り

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物語は、スタローン演じるベトナム帰還兵のジョン・ランボーが、戦友の家を訪ねるところから始まります。その友人は化学兵器の影響で癌を患い、既にこの世の人ではありませんでした。


失意の中、ランボーは食事をしようと小さな田舎町へやって来ますが、そこでティーズルという保安官に声をかけられます。見た目の印象だけで不審者扱いし、「ここでは俺が法律だ。町を出ろ」と居丈高な物言いをしてくるティーズルに、ランボーは「ただ食事をしたいだけだ」と反抗。しかしオフィスへと連行され、あまつさえ保安官たちから一方的な暴行を受けてしまいます。反撃に出たランボーは、何とか署から脱出。強奪したバイク に乗ってティーズル達の執拗な追跡をかわしながら、山中へと逃げ込みます。
やがてランボーが特殊部隊グリーン・ベレーに所属していた英雄的戦士であると判明し、州警察や軍が介入する事態に。追い詰められ、山に一人こもったランボーは、果たして権力に屈することなく、生還することができのか… !?


このように『ランボー』は、町へ食事をしに来ただけの元兵士が、何も悪いことはしていないのにパトカーやヘリコプターに追い立てられ、銃口を向けられるという、あまりに理不尽な話です。なぜ彼がこんな仕打ちを受けなくてはいけないのか、映画を何度見ても納得のいく理由は見つかりません。ただティーズル保安官が「不審で面倒を起こしそうなやつ」と勝手に決めつけたランボーを、町から排除したかった、それだけです。この理不尽な状況は、ベトナム帰還兵が社会から冷遇されていた1970年代のアメリカを想起させます。


明確な前線のないゲリラ戦が繰り広げられたベトナム戦争では、市民の中に潜んだベトコンから奇襲を受けたり、子どもや赤ん坊を引き金に使ったブービートラップがそこかしこに仕掛けられたりと、アメリカ兵はいつ何時も気が抜けない極度の緊張状態に置かれていました。


特に激戦地の状況は酸鼻をきわめ、何とか生き残った者にも深刻なトラウマを植え付けたのです。こうした筆舌に尽くしがたい地獄を体験した兵士たちの多くは、帰国してからPTSD心的外傷後ストレス障害)を発症。中には社会に順応できず、自殺に至るケースも少なくありませんでした。劇中でも、ランボーは時折ベトナム時代の記憶がフラッシュバックしますが、これはPTSDの症状の1つです。実際、帰国してからも戦場にいるという感覚に囚われた帰還兵が、サプライズで抱き着いてきた自らの娘をベトコンだと錯覚し、重傷を負わせてしまうという悲劇もありました。


そんな帰還兵をさらに苦しめたのが、人々からの侮蔑的な扱いです。戦況が一向に好転せず、活路を見いだせないまま泥沼化していったベトナム戦争は、アメリカ社会に暗い影を落としました。また、米軍による一般市民の虐殺といった非人道的行為が明るみになるにつれ、反戦運動が激化。国外からの非難の声も高まっていきます。さらに、軍事機密文書(いわゆるペンタゴン・ペーパーズ)の流出事件など政府の権威を失墜させる出来事も重なり、政権や軍に対する不信感は増すばかり。こうして自国の正義が瓦解していく中、アメリカ社会に蔓延する負の感情のはけ口となったのが、帰還兵です。 


増幅した怒りの標的となった兵士たちは、祖国の空港に着くなり「赤ん坊殺し」といったひどい罵声を浴びせられ、社会から厄介者呼ばわりされました。たしかに米軍がベトナムで行った残虐な行為は許しがたいものでしたが、だからといってあらゆる兵士にその責任を押し付け、犯罪者のレッテルを貼ってよい理由にはなりません。もちろん、こうした状況がずっと続いていったわけではなく、その後改善されていきましたが(また、当然ながらすべての米国民が彼らを蔑んでいたわけではなく、アメリカのために死力を尽くした戦士として敬意を払う人々もいましたが)、多くの帰還兵が長い間、不当な扱いにを受け続けていたのです。


映画の終盤では、もぬけの殻になった保安官のオフィスでティーズルとの一騎打ちを制したランボーのもとへ、ベトナム時代の上司であり彼を最強の兵士へと育て上げたトラウトマン大佐が現れます。「任務はもう終わったんだ」と歩み寄るトラウトマンに、ランボーは「終わってなんかいない!」と激昂。国のために命懸けで戦ったにもかかわらず、世間からのけ者にされた。戦地では100万ドルの兵器を任されたのに、帰国したら駐車係の職にも就けない。ベトナムでの友達はみんないなくなってしまった。こんな惨めなことがあるか…!? 思いの丈を叫び、その場に泣き崩れたランボーは結局逮捕され、物語は幕を閉じます。


ランボーが慟哭しながらトラウトマンにぶつけた怒りは、多くのベトナム帰還兵がアメリカ社会に抱いた感情そのものであり、彼らが心に負った傷そのものでした。映画はフィクションですが、彼がスクリーンを通して観客に叩きつけた怒りはあまりにリアルだったのです。

 

本記事は2020年7月3日にnoteで公開したものです。