悠田ドラゴのAll-Out ATTACK!!

悠田ドラゴのAll-Out ATTACK!!

カテゴリーをご覧になれば、どんなブログかだいたい察しがつくかと思います。

怪獣王の新時代──2010年代のゴジラ快進撃④

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シン・ゴジラ』#2

3月22日、NHKの番組『プロフェッショナル 仕事の流儀』で「庵野秀明スペシャル」が放送された。自身の命よりも作品を優先する仕事観、無尽蔵なこだわり、妥協を許さないストイックさ。その内容は多くの視聴者に衝撃を与え、SNSでも大きな話題となっていた。

 

番組は『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の製作背景に迫ったものだったが、ここで庵野が見せた作品に対する向き合い方は、『シン・ゴジラ』においても同じであっただろう。レイアウトの凝り方が尋常ではなく、「画面全体を1ピクセル上げてくれ」のような細かな要求は珍しくなかった──CGを手掛けた白組プロデューサーの井上浩正が『別冊映画秘宝 特撮秘宝vol.4』で語っているこのエピソードなどがその証左だ。

 

こういった度が過ぎる庵野のこだわりが、時に反感や混乱を現場に引き起こしていたことが、『ジ・アート・オブ・シン・ゴジラ』といったメイキング本等に記録されている。大げさに言えば、彼はゴジラが日本を蹂躙するがごとく、現場の秩序や平穏を乱していった。スタッフにとって、庵野は怪獣であり、理解し難い存在だった。

 

それは本人も自覚的であり、作業がルーティーンになることを防ぎ、それぞれのクリエイティビティを最大限に引き出すため、あえて嫌われ役を演じた面もあったようだ。そして、常に緊張感が漂う現場において庵野とスタッフ達の間を何とかつなぎとめていたのが、樋口だった。彼が緩衝剤となり、『シン・ゴジラ』の現場はギリギリのところで崩壊するのを免れていた。それもまた、何かが掛け違えば一瞬で崩れ落ちてしまいそうな、絶妙なバランスで成り立っている同作のゴジラの危うさと重なるところである。

 

スタッフ、キャストにとって『シン・ゴジラ』を作るというのは、終わりの見えない庵野の創造の旅に、必至で食らいついていく日々だったに違いない。そう考えると、彼らにとって本作の完成というのは、庵野という大怪獣に勝利した瞬間だったのかもしれない。

 

公開された映画は日本において、2014年の『GODZILLA ゴジラ』を凌ぐ驚異的な熱狂を巻き起こした。観客動員数は550万人を突破。これはシリーズ歴代5位の大記録である。

 

邦画シーンのど真ん中に、我らが怪獣王が鎮座した。こんな光景が見られるとは、少なくとも私は全く予想していなかった。これほどまで日本中がゴジラという存在に注目したことは、久しくなかったのだ。

 

その後、レジェンダリーのゴジラがシリーズ化したこともあってか、実写の国産ゴジラは作られていない。当然、東宝は『シン・ゴジラ』の次を考えているだろうし、秘密裏に進行している企画があっても何の不思議はない。

 

いずれにせよ、次にくる日本の実写ゴジラに立ちはだかるハードルは、ある意味で『シン・ゴジラ』よりも高いものかもしれない。

 

繰り返しになるが、『シン・ゴジラ』はシリーズの中に置いてみると、非常に異色な作品だ。つまりこの映画で初めてゴジラに熱狂した人々の多くは、過去の作品を見て同じように面白いと感じるかというと、決してそうではないだろう。

 

シン・ゴジラ』が獲得した観客達を、惹き付けられるもの。かつ、元々シリーズのファンだった人々も納得させられるもの。これから作られるゴジラ映画には、自ずとこれらの枷がはめられているように思う。もちろんそれに縛られる必要など全くないのだが、『シン・ゴジラ』が初代の呪縛から抜け出した一方で、それ以降の作品は『シン・ゴジラ』という存在を意識しないわけにはいけない。それは新たな呪縛となった。

 

だからこそ、一体どんな発想で次なる怪獣王の世界を描き出してくれるのか、楽しみで仕方がない。はたして、誰が庵野という大怪獣に挑むのか…?

 

↓続きの記事

yuta-drago.hatenablog.com

怪獣王の新時代──2010年代のゴジラ快進撃③

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シン・ゴジラ』#1

2021年4月3日、庵野秀明が脚本・監督を務める『シン・仮面ライダー』が、2023年の公開を目指して製作されることが発表された。2016年の『シン・ゴジラ』(脚本・編集・総監督)、2021年公開予定の『シン・ウルトラマン』(企画・脚本)に続いて、またしても日本特撮の顔たるキャラクターの再構築・再創造が彼に委ねられた。

 

この文章を書いている2021年4月上旬の時点で完成・公開済みなのは『シン・ゴジラ』だけだが、いずれの作品でも、庵野がやろうとしていることは一貫しているようだ。それぞれのオリジナルに込められた精神やキャラクターの本質に立ち帰り、今だからできる映像とストーリーテリングで描き直す。陳腐な言い方をすれば“原点回帰”である。

 

ただ、『シン・ゴジラ』という作品を説明するには、“原点回帰”という表現だけではあまりにも不十分だろう。というのも本作は、庵野のもとに日本最高峰のクリエイター陣──樋口真嗣尾上克郎三池敏夫前田真宏竹谷隆之佐藤敦紀らが結集し、心血を注いで新たなゴジラを作り出した結果、単なるオリジナルの再現にとどまらず、特撮映画として未知の領域に踏み込んでいるからだ。半世紀以上にわたって、絶対的な起点であり、不可侵な存在であり続けた1954年の『ゴジラ』の呪縛から解き放たれた『シン・ゴジラ』は、シリーズにおける特異点となった。
※『ゴジラ×メガギラス G消滅作戦』や『ゴジラ FINAL WARS』で意欲的な設定が取り込まれているが、それでも初代を始点とした世界観であることは否めない。


本作に製作としてクレジットされている東宝の市川南がインタビューで語ったことによれば、同社ではレジェンダリーの『GODZILLA ゴジラ』が発表された頃から、もう一度日本のゴジラをやったらどうか、という話が出始めたという。そして2013年、スタジオジブリ鈴木敏夫を介して市川は庵野と会談。これが契機となり、庵野が構想する新しいゴジラの企画がスタートした。

news.yahoo.co.jp

 

彼が描こうとしたのは、完全生物である恐るべき怪獣の進撃によって、崩壊する日本の姿だった。その劇中におけるゴジラは、あまりに歪でユニークだ。

 

2016年初頭、公式な発表を前に『シン・ゴジラ』の造形をとらえた写真がネットに出回っている。赤くただれたような表皮、虚ろな目、不揃いの牙。見慣れた怪獣王の姿とかけ離れたあまりのギャップに、ファンは動揺した。そして同年7月に本作が公開されると、我々は更にショッキングな映像を目にすることになる。劇場のスクリーンに映し出されたのは、ゴジラの進化。それもオタマジャクシのような第1形態から徐々に成体へと変化し、最終的に人形の第5形態に至るという劇的な変態だった。

 

誰も見たことのない恐ろしく巨大で人智を超えた存在が、(劇中でも現実の世界でも)初めて人類の目の前に現れた衝撃。その点こそ、初代『ゴジラ』の特権であり、後続の作品がどうしても超えられない壁となった。しかし『シン・ゴジラ』は、ただ単に1954年のゴジラを物語から排除しただけでなく、想像だにしなかったビジュアルと設定でもって、初代の衝撃に勝るとも劣らないインパクトを現代に与えることに成功したと言える。

 

また『シン・ゴジラ』は、遂に着ぐるみを脱ぎ捨て、CGアニメーションによりゴジラを描いたという点でもエポックメイキングな一作だった。前回紹介した『新世紀特撮映画読本』掲載の切通理作氏のコラムでは、 尾上准監督・特技統括のこんな言葉が紹介されている。

 

「昔は空をホリゾントに描いて、ミニチュア飾って、ゴジラが歩いてくるのを撮るのが<特撮>だったんだけど、今はそれで一般のお客様が納得する映像を撮るのは難しい」
「マニアックな自己洗脳を自ら解いていかないと先に行けないっていうことに気付いた瞬間があった」

 

かつての慣習や手法に縛られていると、先に進む事ができなくなる。たしかに、例えば樋口監督がこだわったという長い尻尾が熱線を発射しながら縦横無尽に動き回るど派手なアクションを、従来の操演で演出することは難しかっただろう。また第2形態のクネクネとしたのたうち回るような動作も、CGだからこそ再現できたアクションと言えそうだ。『シン・ゴジラ』は慣習や王道の手法に固執することなく、新しい特撮の形を模索したのである。

 

これは決して、これまで培われてきた着ぐるみやミニチュアを駆使した特撮を否定するものではない。事実、CGでゴジラを描くにあたり、特に庵野がこだわっていたのはゴムでできた着ぐるみの質感の再現だった。本来CGで生き物を描く際、アニメーター達は筋肉や間接の動きなどを詳細にシミュレーションし、リアルな表現を突き詰めようとする。しかし、庵野たちが求めたのは生物学的に正しいゴジラではなく、特撮的な視点から見た正しいゴジラだった。

 

彼はCGクリエイターたちに「ゴジラを生物と思わないでほしい」と伝えたという。あまりに理にかなった動きや身体の構造をしているゴジラは、少なくとも庵野が求めるゴジラではなかったし、恐らく多くのファンにとっても望んだ怪獣王の姿ではなかっただろう。

 

また、本作の特撮がひたすらCGに頼っているかというと全くそうではなく、優れた美術スタッフによる精巧なミニチュアを使ったシーンも随所で光る。例えばゴジラ第2形態の進行によって崩れる家屋や第4形態が踏み崩す擁壁などは、瓦といった細かなパーツに至るまで職人の手で丁寧に構築されたものであり、これらの画が持つ迫力は彼らの高い技術力の賜物である。

 

こうした伝統と革新の技術を適材適所に配置することで、『シン・ゴジラ』は日本特撮の新たな可能性を提示した。

 

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<参考文献>
シン・ゴジラ』劇場パンフレット
『別冊映画秘宝 特撮秘宝vol.4』(洋泉社刊)

 

怪獣王の新時代──2010年代のゴジラ快進撃②

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GODZILLA ゴジラ』#2

前回見てきたように、ギャレス版『GODZILLA ゴジラ』の発端には坂野義光による3Dゴジラ作品の企画があった。それを実現せんとする彼の情熱が巡り巡ってレジェンダリー・ピクチャーズ東宝の契約へと結実したのだ。ただ、当初坂野が用意していたゴジラVSヘドラ(デスラ)のプロットがそのまま引き継がれたわけではなく、ゼロから製作チームが組まれ、彼らによって別のシナリオが模索される(坂野は企画がレジェンダリーのチームで新たに仕切り直されるにあたり、「環境問題について扱う」ことを約束したという)。

 

クレジットとしてはストーリー:デヴィッド・キャラハム、脚本:マックス・ボレンスタインとなっているが、彼らの他にフランク・ダラボンデヴィッド・S・ゴイヤーらの手が加えられた。そしてでき上がったのは、ムートーなる古代モンスターの覚醒によってアメリカが混乱に陥る中、自然界の調和を取り戻すべくゴジラが出現し、ムートーとサンフランシスコで対峙するというものだった。結果的にではあるが、坂野が「ゴジラ対ヘドラ アット ザ マックス」で構想してた自然の秩序を守るゴジラというキャラクター像は、完成した作品と一致していたのである。

 

それはつまり、ゴジラを人類と敵対する存在として描かないことを意味していた。彼らはゴジラを、人類が恐怖する存在ではなく、畏怖すべき神として描いたのだ。そのゴジラ像は古参のファンに比較的受け入れられたが、実のところ、それまで東宝が打ち出してきたゴジラのイメージとは似て非なるものだったように思う。

 

「僕たちは、現実の世界で実際にゴジラを見たら、どんな姿だろうかということを突き詰めて考えていた。しょっちゅう会話の中で出てきたのは、『これが人間だったら、どんな人物なんだろう?』というものだった。それをしばらく考えた結果、僕たちが思いついたのは、きっと“最後のサムライ”みたいな存在じゃないかということ。できるなら世の中のごたごたから離れていたいんだが、世界で起きている出来事のために、やむなく再び表舞台にでてきた昔ながらの孤高の戦士、というアイディアだった」
劇場パンフレット掲載のギャレスの発言より

 

その神秘性は初代ゴジラに通じるところもあるし、『ゴジラ対ヘドラ』から『メカゴジラの逆襲』までにおける頼もしい正義の怪獣像にも重なるところがある。しかし、人類という存在にほとんど関心を示さず、砲撃されても敵意を見せない。彼の中には、ムートーを倒すという生態系の王としての使命(あるいは本能か)しかない。ゴジラは街を壊しているのではなく、たまたま彼の行く先に街があり、身体が当たって建物を破壊してしまった。そんな印象だ。こうしたキャラクターのゴジラは、ギャレス版以前にはいなかったと言って良い。オリジナルの骨子を受け継ぎつつも、彼らはそこに新たな解釈を盛り込み、自分たちのゴジラを生み出した。

 

本作のゴジラが新しかったのは、それだけではない。CGアニメーションでその姿が描かれたことも、大きなターニングポイントだった。着ぐるみやアニマトロニクスに頼らないゴジラは、これがシリーズ初である。

 

そのビジュアルがあらゆるファンを納得させる仕上がりだったというと嘘になるが、少なくともゴジラたる威厳と迫力は、東宝の着ぐるみ特撮が作り出してきたそれに勝るとも劣らないものであったこともまた事実である。そこには、ギャレスらスタッフ達のオリジナルに対するリスペクトがあった。

 

その証拠に、彼らはかのアンディ・サーキスを呼び寄せ、モーション・キャプチャーを駆使し、ゴジラの動きに人間の魂を入れた。そうすることで、着ぐるみゴジラの重厚感や動物と一線を画する歪さを、CGを使いつつ再現したのである。『新世紀特撮映画読本』に寄せられた切通理作氏のコラムの言葉を借りるならば、「着ぐるみを元にした、重力を重視した表現の進化形がそこにあった」。

 

2014年5月に全米公開されたギャレス版『GODZILLA ゴジラ』は、各国でヒットを記録し、世界興収5億ドルを突破。日本の誇る怪獣王が、いまだ世界で通用するムービー・アイコンであることを数字でも証明してみせた。これはその後のシリーズが発達していく上で、あまりにも大きく重要な成功だったと言えよう。ここで頓挫していたならば、今日我々が目にしている熱狂もなかったはずなのだ。

 

ただ、日本に限ってみると、この時点ではまだ真の意味でゴジラがかつてのブランドを取り戻すまでには至ってなかったように思う。その復活を目撃するのは、2016年の『シン・ゴジラ』まで待たなければならなかった。

 

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<参考文献>
GODZILLA ゴジラ』劇場パンフレット
『新世紀特撮映画読本』(洋泉社刊)

映画秘宝2018年12月号』『同 2019年1月号』(洋泉社刊)

怪獣王の新時代──2010年代のゴジラ快進撃①

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2004年に『ゴジラ FINAL WARS』が公開され、シリーズに一旦の終止符が打たれた頃、十数年の時を経てゴジラが国際的なマーケットで戦える強力なコンテンツと化すことを予想できた人は、はてして何人いただろう。ハリウッドによってシリーズ化され、その最新作を世界中のファンが待ちわびている状況を、どれだけの人が想像できただろう。

 

少なくとも私は2004年の時点で、かなり真剣にゴジラは終ったのだと思っていた。シリーズの集大成を謳い、歴代の怪獣を惜しむことなく投入した『ゴジラ FINAL WARS』が興行面で惨敗を喫したとき、そのブランドとしての価値が自分の思っている以上に弱っていることを痛感した。

 

メカゴジラの逆襲』から10年の沈黙を経て1984年の『ゴジラ』が作られたように、ともすれば新たな国産ゴジラを目にすることもあるだろう。しかし、その帰還を喜ぶのは一部の特撮ファンだけになるのではないかという、ある種ネガティブな見方しかできなかった。

 

ところが、いまこの状況はどうか。

 

2014年にハリウッドでゴジラがリブートされ、その後キングギドラモスラといった東宝のスター怪獣から米産モンスターの頂に君臨するキングコングまでを取り込んだ巨大シリーズへと発展。国内に目を向ければ、2016年に国産ゴジラが復活し、社会現象と言って差し支えない興行的成功を収め、それからアニメというフィールドで意欲的な作品が展開されていった。

 

これを快進撃と言わずして何と言おう。ゴジラは間違いなく、かつてないほどのブランド力を手にし、黄金期にあるのだ。

 

この状況に至る2010年代にスポットを当て、怪獣王の歩みを振り返ってみたい。


GODZILLA ゴジラ』#1

 

ゴジラ映画が勝ち取った今日の国際的な成功は、2014年に公開されたレジェンダリー・ピクチャーズ製作の『ゴジラ』が切り開いた。その始まりは、2003年にまで遡る。

 

坂野義光怪作『ゴジラ対ヘドラ』の監督と知られる映画人である。彼は『ゴジラ FINAL WARS』によってシリーズが終了するよりも以前、1998年のハリウッド版『ゴジラ』を作ったトライスターから海外におけるゴジラの製作権利が東宝に戻ってきた頃、大型映像システムでの上映を前提としたゴジラの映像作品を企画していた。「ゴジラ対ヘドラ アット ザ マックス」なるタイトルがつけられたその内容は、変形を繰り返して世界を脅威に陥れるヘドラ(デスラ)と、それを食い止めるために現れたゴジラの死闘を描くもので、人間ドラマのない40分ほどの作品を構想していた。監督・脚本は坂野が担当し、海外から出資を募りつつも、日本のスタッフで撮影をするつもりだったという。

 

それから坂野は、後に2014年の『GODZILLA ゴジラ』で彼とともにエクゼグティブ・プロデューサーに名を連ねることになる奥平謙二の助けを借り、企画実現のための資金集めに奔走する。その過程で企画は3D作品を前提とするようになり、アトラクション映像「ターミネーター2:3D」などの仕事で知られるプロデューサーのブライアン・ロジャースといった強力なスタッフがプロジェクトに参加。さらに、制作会社・出資会社としてカーナー・オプチカルが東宝と交渉を開始し、長編としての実現も現実味を帯びてくる。しかし、結局必要な資金は手に入らず、坂野たちの試みは座礁してしまったかに思えた。

 

ところが、その後レジェンダリー・ピクチャーズの登場によって事態は好転。同社は当時、『ダークナイト』『300』『ウォッチメン』といったアメコミ映画の世界的ヒットで急成長を遂げていた。ブライアンは企画が大型映像作品であった頃から同社にプレゼンをしていたが、長編を前提としてレジェンダリーと東宝の交渉がスタート。ゴジラを始めとするモンスター映画を見て育った純正怪獣オタクである同社のCEOトーマス・タルの熱意も追い風となり──当初の坂野の構想とは違う形ではあるが──遂に新生ゴジラの製作がスタートしたのだった。

 

ここまでも坂野・奥平ら当事者たちにとっては相当険しい道であったろうが、製作のバトンを引き継いだレジェンダリーのスタッフらにとって、新しい怪獣王の形を創造するという作業がさらなる困難を伴うものであったのは想像に難くない。既にキャラクター像が確立しているモンスター・アイコンを、いまの時代にどのような形で観客に提示すべきなのか。あまりにオリジナルから逸脱したものを作れば、1998年のローランド・エメリッヒ版『ゴジラ』のようにファンから大いに叩かれるのは火を見るよりも明らかだ。

 

※余談だが、個人的にはエメリッヒ版『ゴジラ』に対して擁護的な立場を取っている。

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オリジナルのゴジラをリスペクトし、その本質や見せ方を理解していながら、全く新しい世界観を構築できる能力を備えたフィルムメーカー。トーマスやブライアンら製作陣が求めていたのは、そんな監督であっただろう。そこで抜擢されたのが、ギャレス・エドワーズだった。

 

全財産と人生をかけ、50万ドルで完成させた初監督作『モンスターズ/地球外生命体』でその才能を満天下に知らしめた、新進気鋭の英国人映像作家。南米でゲリラ撮影を敢行し、自宅でひとりコツコツとVFXの作業をこなし、ギャレスが持てる情熱と気合いをすべて注ぎ込んだ同作を観て、タルは「彼にもっと資金と大きなカンバスがあったら、とんでもない“絵”を描けるんじゃないか」と思ったという。

 

当時、ギャレスは30代半ばという若さ。しかも監督作は『モンスターズ/地球外生命体』1作のみという新人であった彼に、1.5億ドル以上もの予算をつぎ込んだ超大作を任さたレジェンダリーの胆力と慧眼には敬服せざるを得ない。そして実際、ギャレスはタルたちが求めた見たことのないゴジラの映像表現を見事提示してみせたのである。

 

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<参考文献>
GODZILLA ゴジラ』劇場パンフレット
ゴジラを飛ばした男 85歳の映像クリエイター 坂野義光』(フィールドワイ刊)
『新世紀特撮映画読本』(洋泉社刊)
映画秘宝2018年12月号』『同 2019年1月号』(洋泉社刊)

『学校の怪談』は異形の映画に通ず

きっと誰しも、映画に対する好みとか価値観を形成する上で外せない作品ってあるじゃないですか。
私の場合、そのうちの1本に間違いなく入るのが『学校の怪談』であります。
「うひひひひひひひひ……」でお馴染みの、1995年に公開されたホラー・アドベンチャーです。

 

当時私は小学1年生。静岡は御殿場に昔マウント劇場という映画館がありまして、そこで鑑賞しました。
ぼんやりとした記憶しかないのですが、映画館に着いたとき、まだ前の回が上映中で、売店でお決まりのスナック菓子を買って待っていたような気がします。
で、なぜだか劇場の扉を開けてみたのです。
そしたら、スクリーンいっぱいに映し出されていたのは、ぎょろ目のくっついた気持ち悪い眼鏡ですよ。ギョエッ!

 

あの邂逅は、四半世紀ほど経った今でもわりとはっきり覚えていまして、私にとって『学校の怪談』を象徴するシーンといえばあのヘンテコ眼鏡なんですよね。

奇怪であり、どこかユーモラスでもあり、あり体に言えばグロい。そして怖い。
そういう歪で厭なものを、子ども向けだからと言って変に薄味にせず、こんなの子どもに見せたらトラウマ必至なんではないかというクオリティで提示してみせる。その胆力こそ、『学校の怪談』という作品の素晴らしさなんじゃないかと思います。

 

これについて、劇場用パンフに寄せられている同作のSFXプロデューサーを務めた中子真治さんのコラムの中に、重要な証言があるのでご紹介します。

 

物作りをする時、僕は子供の知性を絶対、過小評価しちゃだめだっていうこだわりを持っていまして、特に今回のような映画の場合、「観るのは子供だから、この程度でいいだろう」っていう作り方をしたら、お終いじゃないかと感じていたんです。

 

さて、『学校の怪談』と言えば、数々のお化けたちが大暴れする1本でもあります。
どん引きするくらいリアルな臓物丸出しの人体標本、これまた内臓さらけ出しのホルマリン漬け生物たち、神出鬼没の花子さん、そして可愛いテケテケなど、個性豊かな面々が揃っていますが、ショッキングという点でクマヒゲさんこと妖怪インフェルノがずば抜けた存在であることは、論をまたないでしょう。

 

用務員のおっさんの口から、いきなりでっかいザリガニみたいのが飛び出してきてですね、引っ込んだと思ったら、背中から甲殻類の足っぽいものが生えてくる。
まさに悪夢製造マシーン。あれはダメです。蟹が食えなくなる。

 

このとてつもなくおっかないクマヒゲさんが、あまつさえ変態を遂げ、クトゥルフ神話に出てきそうな異形の怪物となって襲いかかってくるものだから、さあ大変。
ここに至るまでも登場人物たちの命が危険にさらされている感はありましたが、クマヒゲさん変異後はまさに絶体絶命な展開になってきます。

 

劇中では辛くもクマヒゲさんの執拗な追跡から逃れることができたわけですが、もし捕まっていたらと考えると本当に恐ろしい。例えば、あの口から飛び出す伊勢エビみたいなやつを、自分の口に突っ込まれでもしたら…ああ、嫌だ! そんな『遊星からの物体X』みたいな展開はきつ過ぎる。

 

その辺の線引きも上手ですよね。
怖いしおぞましいけど、ファミリー・ムービーとしての一線はギリギリで超えないライン。
的確な線引きをしつつも、しっかり子どもたちをギョッとさせるし、適度なトラウマを植え付ける。

 

この原体験が、小生の映画人生における方向性を決定づけたのではないかと、今振り返ると思います。『学校の怪談』を通してショックを受けつつも、それなりにショック描写に免疫が出き、なんならああいった怪奇映画に引き寄せられていく。その結果、上述した『遊星からの物体X』を始め『エイリアン』『ザ・フライ』『マウス・オブ・マッドネス』といった異形の映画にどっぷり浸ることになったような気がします。

 

昔はちょこちょこテレビで放送していたような気がしますけど、もはや毎年やってもらいたいですよね。夏休みはラジオ体操・プール・学校の怪談!みたいな。

ゴジラ映画のアガるタイトル・シークエンス ベスト5

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ゴジラVSコング』に向けて士気を高めよう!という目的で勝手に始めた「ゴジラの●×ランキング ベスト5!」ですが、1月25日に同作の本予告が満を持して解禁され、世界中でゴジラ熱がマッドでマックスな状態に。

 

もはやこんな記事を書かなくとも、既にみなさん沸点を通りこして、蒸発しちゃうんじゃないかというくらい沸き上がっているわけですが、悪役背びれの2回で終らすというも何だか中途半端じゃないですか。

 

というわけで、『ゴジラVSコング』が日本公開される(予定の)5月までは、思いついたランキングをしこしこアップしていこうという所存でございます。

 

今回は、ゴジラ映画のアガるタイトル・シークエンス ベスト5!」

 

選考の基準としては、ロゴのデザイン、派手さ、パワフルさ、音楽、テンポ、前後のシーンとのつなぎ方などを考慮している──と、もっともらしく言いたいところですが、有り体に言えば私がどれだけ「かっけ〜!」と感じたか。それがすべてです。

 

 


第5位 ゴジラ対メカゴジラ

荒涼とした岩場が広がるどこかの島。何かを威嚇するように咆哮するアンギラス
そして巻き起こる大爆発。

 

火を噴きながら破裂する岩山を背に、ゴジラゴジラゴジラゴジラゴジラ!と我らが怪獣王の名が素早いズームイン(奥から手前)で5連発叩き込まれます。そこから間髪を入れず、今度は宿敵メカゴジラの名前もズームアウト(手間から奥)のアニーメションでこれまた5連打。

そして画面いっぱいにダダーン!と映し出される『ゴジラ対メカゴジラ』のタイトル。

 

謎の爆発が起こって、ポカーンとしているこちらをよそに、異様なテンションで両主役の名前が叩き込まれるというのが、本作のオープニングであります。
何というか、まだ寝起きでボケ〜っとしているところに、拳骨を10発食らって、なおかつ冷や水をぶっかけられたような、そんな衝撃を受けること請け合いです。

 

で、さらに衝撃的なのが、このタイトル・シークエンスに続くキャストやスタッフのクレジットですよ。さっきまでの剣呑な雰囲気はどこへやら、唐突に沖縄の風光明媚なショットが映し出され、そこに爽やかなでお洒落な音楽が乗っかってくる。まるで自治体の作った観光プロモーションビデオみたいな映像です。

 

この落差も実に味わい深い(気がする)。


第4位 シン・ゴジラ

ドーン…ドーン…と砲撃のごときゴジラの足音がこだまする中、お馴染みの東宝のマークが映し出され、ゴジラの咆哮とともに『シン・ゴジラ』のタイトルへと転換。

 

エフェクトなどを排した非常にシンプルかつ力強い本タイトル・シークエンスは、初代『ゴジラ』のそれを踏襲したものです。ゴジラの足音が一定のテンポで鳴らされており、これによってリズムが刻まれ、グルーヴが生まれる。4ビートの一拍目に和太鼓でアクセントをつけている感じ…とでも言いましょうか。とにかく心地好いし、怪獣映画が始まるというゾクゾク感に駆られること間違いなし。

 

そして、『シン・ゴジラ』を劇場で見ていてしびれたのが、タイトルが映し出された後、絶妙な間合いを取ってから、足音とともに「映倫」の文字がドンッ!と現れるところですね。スタッフやキャストの紹介を入れず、ここからスパッと本編に突入する。この切れ味、このテンポの良さ。

 

本作のクールさというのは、始めから際立っていたのでした。


第3位 ゴジラVSメカゴジラ

度重なるゴジラの襲来に対処するため、日本政府は国連G対策センターを設立。海底に沈んだメカキングギドラの残骸を回収して、23世紀のロボット工学を徹底的に分析し、史上最高最強の対ゴジラ兵器:メカゴジラを開発した──。

 

ゴジラVSメカゴジラ』の冒頭では、こういったあらましがナレーションで語られた後、完成したメカゴジラの堂々たる姿がバストアップで大きく映し出されます。そこに名匠:伊福部昭の手掛けた威風堂々たる劇伴がとどろき、メカゴジラの勇姿にタイトルがドドーンと重なるわけですが、こんなかっこいい音楽と画が合わされば、興奮するなという方が無理な話。ズルい!というくらいに、鉄壁のタイトル・シークエンスだと思います。

 

ここで流れる音楽は、後に『シン・ゴジラ』のエンド・クレジットでも使われ、同作を締めくくる1曲となりました。これを最後に持ってくることで、『シン・ゴジラ』がより格調高くなったというか、さらに映画としての説得力が増したような印象でしたね。そういう有無を言わさずこちらを圧倒するパワーを秘めた、恐るべき楽曲だと思います。


第2位 ゴジラVSデストロイア

体中が赤く発光し、明らかに異常をきたしているゴジラが香港に上陸。
摩天楼に熱線を吐きかけ、大爆発を引き起こしたところで画面が暗転し、タイトル・シークエンスへと移ります。

 

凄まじい咆哮とともに、初代と同じデザインのゴジラ・ロゴが、これまた同じように下からスライド・イン。それが大爆発し(また爆発!)、その炎を飲み込むようにしてオキシジェン・デストロイヤーが登場。まるで海底に沈んで行くかのように、画面奥の闇へと飲み込まれていきます。

 

そして煌びやかな(たぶん)ハープの音が鳴り響く中、ゴジラのロゴが一文字ずつ手前から流れてきて、劇伴が最高潮に達したところで、「VSデストロイア」の文字がド派手なアニメーション付きでドカーンと打ち付けられる。

 

第1作との密接な関係を示すとともに、「VSシリーズの有終の美を飾る」という気概に溢れた、感慨に浸ざるを得ないオープニングじゃないでしょうか。爆発がいっぱい起こるし、炎もメラメラと燃え盛りまくりで、川北特技監督を始めとするスタッフのなみなみならぬ情熱が感じられるところも最高です。


第1位 ゴジラモスラキングギドラ 大怪獣総攻撃

本作のタイトルの何が最高かって、“迫り出すゴジラ”に尽きますね。

 

アメリカの原子力潜水艦が消息を絶ったグアム島沖合で、日本防衛海軍の広瀬中佐が青白く背びれを発光させながら海底を移動する巨大な“何か”を目撃。
「移動中の物体は何か?」と無線で問われ、「自分の目が…信じられません!」と思わず叫んだところで、ゴジラのいかつい巨大ロゴがドドンと文字通り画面から迫り出してきます。

 

タイトル・シークエンスに移るまでの演出や流れも最高ですが、このゴジラの三文字がスクリーンから飛び出してきたときのパワーときたら! 私はこれを勝手に、壁ドンならぬゴジドンと呼称していまして、初見時はすっかりノックアウトされてしまいました。

 

もちろん、その後に続くモスラキングギドラのロゴが神々しく組み合わさって、中央に「大怪獣総攻撃」の副題がバーンと現れる展開もめちゃくちゃアガるわけですが、私はゴジドンの時点で既に昇天してしまいます。そのブルドーザー100台が一気に押し寄せてきたみたいな迫力だけでもって、歴代タイトルの第1位に選ばせていただきました。

『鬼滅の刃』の吾峠先生はカーペンター映画ファン説

鬼滅の刃』を読み始めました。今さら。

 

何やら鬼が人を喰ったり、首が飛んだり、けっこうグロかったり…といった評判は耳にしていて、そりゃあ面白そうだ!と関心は持っていたのですが、小生ランボー・シリーズを見たりで忙しかったものでして。漫画好きの妹に、そのうちちょろっと見せてもらおうかな、くらいにのほほんと考えていたのです。

 

ところが、職場では私を除く全員が『鬼滅の刃』を読了しており、呼吸がどうだとか、よくわからん話をしているわけですよ。その度に私は適当に笑ったりして、何となくその場の空気に乗っている感を出しながら、若干寂しい思いをしておりました。それでも「まあ仕方ない、わしゃランボーを見るので忙しいんじゃい」と独り言ちながら過ごしていたわけですが、ひょんなことから上司にコミックを貸してもらえることになり、遂に空前絶後の大ヒットマンガを体験する時がやってきたわけです。

 

で、数巻読み終って思ったことがあります。

 

これは早い話が、鬼退治版『ヴァンパイア/最期の聖戦』なんじゃないか!?ということです。

 

『ヴァンパイア/最期の聖戦』というのは、1998年に公開されたジョン・カーペンター監督作品。『ヴィデオドローム』などでお馴染みのジェームズ・ウッズ演じるヴァンパイア・ハンター:ジャック・クロウが、吸血鬼を殺しまくるヴァイオレンス・アクション映画であります(人間もめちゃくちゃ殺されます)。

 

ジャックはバチカンから指令を受けて、人間社会に潜む吸血鬼たちを抹殺するヴァンパイア・スレイヤーズの一員なのですが、これはつまり鬼殺隊ですよ。後者は後ろ盾のない非公認組織でしたけれども、スレイヤーズも公にはなっていない秘密組織なので、似たようなものです。

 

また、ジャックは両親をヴァンパイアに襲われ、吸血鬼と化した父親を自ら殺めた悲惨な過去を持っています(ヴァンパイアに咬まれると吸血鬼化するというゾンビ設定なのです)。一方、『鬼滅の刃』で主人公の炭治郎くんも家族を鬼によって惨殺されていますね。非常にピュアで若く、そしてあまりにも優しい炭治郎くんと違い、ジャックは暴力的で態度も悪い海千山千のおっさんですが、2人の境遇は近いものがあるわけです。

 

敵の設定も近いところがあって、日に当たると死ぬ、人間をヴァンパイア/鬼に変えて仲間にする…などが挙げられます。特に『ヴァンパイア/最期の聖戦』のボス・キャラである魔鬼ヴァレックと、炭治郎くんの宿敵である鬼舞辻は、けっこう似ていると思いました。2人ともそれぞれヴァンパイア/鬼の始祖であり、不死身なので長い年月を生き続けています。あと、両者とも色男でめちゃくちゃ強いのです。ヴァレックがどれくらい強いかというと、素手で『殺し屋1』のごとく人を真っ二つにできます。

 

といったところが、『鬼滅の刃』を鬼退治版『ヴァンパイア/最期の聖戦』と解釈する所以なのですが、さらにコミックを読み進めていくにつれ、私は『鬼滅の刃』の作者:吾峠先生が実はジョン・カーペンター監督のファンなのでは!?と思うようになりました。

 

すごくわかりやすいところで言うと、『鬼滅の刃』に蜘蛛をモチーフにした鬼:累さんというのが出てきますが、彼の住む山にいる人面蜘蛛みたいのは、明らかに『遊星からの物体X』のスパイダーヘッドへのオマージュですね。また、鬼達が社会に潜みつつ人間(弱者)を貪って生きながらえているというのは、社会に紛れながら密かに人間を支配して搾取を続けている『ゼイリブ』の構図と重なっても見えます。

 

そして、これにも触れないわけにはいけません。首チョンパ! 『鬼滅の刃』ではまあまあの頻度で首が飛ぶシーンが出てくると思いますが、首チョンパはいくつかのカーペンター映画においても超大事。『ヴァンパイア/最期の聖戦』ではヴァレックに惨殺された仲間や娼婦達が吸血鬼化するのを防ぐためにジャックが亡骸の首をはねるシーンがありますし、他にも『ゴースト・オブ・マーズ』などは首チョンパ・カーニバル・ムービーと呼ぶのに相応しい内容です。

 

ということで、牽強付会は承知の上で言いますが、吾峠先生はきっとカーペンター魂を持った漫画家であり、鬼滅の刃』を通してカーペンターイズムを世に浸透させようとしている伝道師であると勝手に結論づけたいと思います。

 

以上、『鬼滅の刃』のカーペンター映画っぽいところを見つけておじさんがキャッキャッしているだけの駄文でございました。