悠田ドラゴのAll-Out ATTACK!!

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エメゴジ讃歌[前編]トライスター版ゴジラを侮るべからず!

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ローランド・エメリッヒといえば『インデペンデンス・デイ』(1996年)とその悪名高き続編『インデペンデス・デイ:リサージェンス』(2016年)、『デイ・アフター・トゥモロー』(2004年)、『2012』(2009年)などの超絶ディザスター・ムービーが特に有名ですが、彼のフィルモグラフィーの中で忘れてはいけないのが、1998年公開の『ゴジラであります(エメリッヒは監督・脚本・エグゼクティブ・プロデューサーでクレジット)。


我らが怪獣王をトライスター・ピクチャーズがリメイクした、初のアメリカ資本によるゴジラ映画なわけですが、本作のゴジラはフランスがポリネシア海域でおこなった水爆実験の影響で生まれた新種の生命体という設定で、まるで『ジュラシック・パーク』のTレックスよろしく前傾姿勢でニューヨークを爆走(時速480kmという新幹線クラスの瞬発力!)。おまけに無性生殖が可能で、一度に200個以上の卵を産むという、本家東宝版のイメージとはかけ離れた、陳腐な言い方をすれば怪獣というよりも“クリーチャー感”が漂うモンスターでした。


今さらいうまでもなく、この驚くべきゴジラの描き方は賛否両論──というより、多くのゴジラ・ファンの怒りを買い、映画全体が軽妙なタッチの(コメディともとれる)ドラマだったことも相まって、批評的には散々な結果に終わります。レビュー・サイトをのぞいてみると、そこにはもちろん擁護派の意見も散見されるものの、「こんなのゴジラじゃない!」「駄作!」「クソ映画!」といった罵詈雑言や、エメリッヒに対する心ない非難の声が飛び交っている状況です。


そういった言葉の数々を目にするたびに、僕は悲しい気持ちになります。エメリッヒの『ゴジラ』は、はたしてそれほどの罵声を浴びせられるほどひどい映画なのでしょうか?


断じて、そんなことはないと思います。


決して全面的に褒められる映画ではないし、「これはどうなの?」と首を傾げざるを得ないところもたしかにある。
しかし、これからゴジラ・シリーズにはじめて触れようとしている方々が、ネットのレビューを見て、「1998年のゴジラって駄作なんでしょ?」「ファンからゴジラって認められていないんでしょ?」「つまらないんでしょ?」みたいな先入観を抱き、エメゴジを避けるようなことがあったとしたら、それは非常に由々しき事態です。そんな唾棄すべき悪評に対抗するべく、これから全力でエメゴジのいいところを愛でていきたいと思います。

 

 

①チラ見せの美学

映画が始まってから約20分間は、太平洋に突如出現した巨大な“何か”の一部や痕跡──たとえば漁船に叩き付けられる尻尾、海底から轟く鳴き声、タンカーについた巨大な爪痕などをちょっとずつ見せる、“チラ見せ”的な手法でその存在を仄めかしていきます。これは1954年の初代『ゴジラ』にも通じる、観客の期待や不安を煽るためのモンスター映画の王道的演出と言えるでしょう。


わけても出色の出来映えだと思うのは、パナマのサン・ミゲル湾にある小さな村で主人公の生物学者:ニック・タトプロスがはじめて“何か”の痕跡と遭遇するシーンです。ゴジラを追う米軍の司令官ヒックス大佐に連れられて、被災した村に降り立ったニックは、一見何の変哲もない更地で「ここがサンプルだ。調べろ」といわれます。「何もないけど?」とニックは返しますが、自身が巨大な生き物の足跡の中に立っていることに気づき、仰天。彼が「何もないけど?」と訝しがっている様子をとらえたカメラが引いていくと、ニックが足跡に気づくのと同時に、観客もまたそこが足跡の中であったことを知るという構造になっており、非常に巧妙なカメラワークだなと感心します。


このパナマのシークエンスは、道に沿って足跡が続いている様子を上空から捉えた俯瞰的なショットで終わるのですが、ここからクロスフェードする形でニューヨークの街道をとらえたシーンへとつながっていきます。“何か”の足跡が残された道と、大都会のストリートが重なる。つまりここは、ニューヨークの街中を“何か”が闊歩するという未来を暗示しているわけです。実に映画的で、よく練られたつなぎ方ですよね。


こういったモンスター映画の王道的手法と巧みな見せ方で観客をグイグイと作品の世界に引き込んで行く冒頭20分は、テンポも軽快で、何度見返しても飽きないし、ワクワクさせられます。


②徹底した人間視点の描写

ついに巨大な“何か”=ゴジラがニューヨークに上陸をはたすシークエンスでは、多少の例外はあるものの、基本的に人間の視点にたったカメラワークがなされています。そのため、満を持して現れたゴジラではありますが、スクリーンに映し出されるのはほとんど彼の足です。とんでもなくデカい2本の足が逃げ惑う市民を踏み潰しながら、ニューヨークをズシンズシンと揺るがす様が、人間の視点から描かれていくわけです。それによって、観客に強烈な臨場感をおぼえさせることに成功していると思います。


もちろん国産のゴジラ映画にも、地上の人々から見た怪獣襲撃シーンというのはありました。しかし、エメゴジほど長い尺を割いて、ここまでリアルな画で見せたものはなかったでしょう。これは間違いなく、東宝ゴジラにはできなかった、ハリウッドならではの映像表現だったと言えるのではないでしょうか。


ちなみに、全く話は逸れますが、予告編にも使われた桟橋で釣りをしているおじいちゃんの竿を、ゴジラが海中に引きずり込むシーンがあるじゃないですか。あそこは何遍見ても、あの釣り糸の長さでは結構沖の方にいるっぽいゴジラに引っかかるのって不可能に思えるんですが…。もし、この場面をきちんと説明できる方がいらっしゃいましたら、ぜひご教示ください。閑話休題

 

③驚異の感覚

これは有名な話ですが、エメリッヒとプロデューサー・脚本のディーン・デブリンによって『ゴジラ』の製作が本格的に始動するまでは、かなり紆余曲折がありました。ゴジラのハリウッド化は1980年代の終わりからプロジェクトがスタートしており、ジェームズ・キャメロンティム・バートンといったヒット・メーカーの名前が監督候補に上がったこともありましたが、いずれも実現には至りません(集英社刊の『ゴジラ映画クロニクル 1954〜1998 ゴジラ・デイズ』によると、1993年2月にはテリー・ギリアムが監督に決定したという報道もあったそうな)。


そして、1994年にヤン・デ・ボンが監督に決定し、具体的な製作がスタート。がしかし、こちらも結局は頓挫してしまいます。その背景には予算的な問題などもありましたが、ゴジラが魅力的なムービー・スターでありモンスター・アイコンでもある反面、東宝のオリジナル版のイメージが強過ぎるあまり、ハリウッド大作としてリメイクすることがいかに困難なことであったかを物語っているでしょう。一流の映画人たちが二の足を踏み続けるほど、ハリウッド版ゴジラはリスクの高い企画だったわけです。


デ・ボンが降板した後、トライスターは遂にエメリッヒ&デブリンのコンビにアプローチをかけます。2人は当時、『インデペンデンス・デイ』を製作している最中でした。2人は当初、これまでの監督たちと同様、オファーに対して難色を示します。エメリッヒ曰く、4回は断ったそうです。

 

「『ゴジラ』の難しさは、みんな懐古的な興味を示す反面、真剣には考えてくれない点だ。(アメリカのイメージでは)僕らが扱うにはキッチュすぎる題材のように思えたんだ。そこで、どうしたら『ゴジラ』を作り直せるのか? そこから可能性を探ったんだ」
(劇場パンフレット「MAKING THE MOVIE 1」掲載のデブリンの発言)


その可能性を探るべく、2人は『インデペンデンス・デイ』のエイリアンなどを手がけたパトリック・タトプロスに、新しいゴジラのデザインを依頼。彼は、「とてつもなく機敏に動きまわる、呼吸している生物」という条件だけ与えられ、ゴジラの新たな姿を模索しました。

 

タトプロスは「今の仕事を志すきっかけとなった怪獣を作り直すことは、最初のうちは冒涜に思えて」なかなかオリジナルから離れられなかった。そんな彼に強力なインスピレーションを与えてくれたのはなんとワニだった。
(劇場パンフレット「MAKING THE MOVIE 1」より)


こうしてタトプロスは、『エイリアン』のビッグチャップの身体に獰猛な爬虫類の顔がくっついたような、かつてないゴジラを創造しました。この時のデザインは、背びれの配列など細かい違いがあるものの、ほぼ完成型だったと言えます。このタトプロスの斬新なデザインを見て、エメリッヒとデブリンは自分たちのゴジラ映画を作るとを決心したそうです。(ちなみに、日本語版ウィキペディアには「恐竜の復元図を元にしている」という記述がありますが、パンフレットの解説によれば、タトプロスは製作の過程で「恐竜図鑑を見たことは一度もなかった」と断言しています)


こうして生まれたエメゴジは、ずっしりとしたオリジナル・ゴジラの造形とあまりにかけ離れていることから、何かと槍玉に挙げられています。しかし、日本のゴジラとは一線を画したその造形によって、エメゴジには初代『ゴジラ』が持っていた、ある種の新鮮な感覚を取り戻すことができたと考えます。それは、「こんなとんでもない生き物が、この世界にいたなんて…!」という、未知との遭遇で呼び起こされる驚異の感覚です。

 

オリジナルの部分部分をいじるより、まったく新しいものを作り出した方が初期のスピリットに忠実でいられると解ったんだ。
(劇場パンフレット ディーン・デブリンの発言より)


初代『ゴジラ』においては、誰もが見たこともない恐竜のような化け物をスクリーンに登場させ、観客の度肝を抜いてやろうという製作者達の意欲が迸っているように思います。その精神に則るのであれば、日本のゴジラをただ模倣するのではなく、独自のゴジラ像を打ち出して観客を驚かそうとしたエメリッヒ&デブリンの判断は、実に誠実だったといえるのではないでしょうか。


④文明から拒絶された被害者

【注】ネタバレしますので、映画を未見の方はご注意ください(といいつつ、終わり方を知っていてもたぶん映画の面白さに影響はないので、読んでもらっても問題ないと思います)。


映画の結末を言ってしまうと、ゴジラマジソン・スクエア・ガーデンに自身が産みつけた卵から孵った200頭以上の赤ん坊をもれなく爆殺された挙げ句、F18戦闘機のミサイル攻撃を何発も喰らい、ブルックリン・ブリッジの上で悲劇的な死を遂げます。


核実験によって生まれた巨大生物が都市を襲い、最後は人間側の攻撃によって命を落とすという筋書きは、もちろん初代『ゴジラ』のそれをなぞるものですし、さらに言えば初代『ゴジラ』の元ネタである『原始怪獣現わる』(1953年)の構造とも一致します。これらに共通するのは、人類の暴挙によって人間の世界に踏み込まざるを得ない状況に追い込まれた生き物が、人間側の都合によって拒絶され、世界から排除されてしまった、ということです。簡単に言えば、ゴジラも『原始怪獣現わる』の恐竜リドサウルスも、人類の身勝手さの犠牲者なのです。


そういった側面を、エメゴジはしっかりと打ち出しています。核実験の影響によって望まない進化を強要されたゴジラは、ただ本能に従って繁殖のためにニューヨークへ向かいますが、そこで親子共々、抹殺されてしまう。軽いノリのドラマ展開ゆえ、そういった悲劇性は感じづらいですが、物語の構造的には間違いなくゴジラ=犠牲者という要素が根幹にあります。


それを踏まれれば、エメリッヒとデブリンたちスタッフは真摯にゴジラ映画を作ろうとしたし、作品にもそのスピリットはしっかりと宿っている。僕はそう思うわけです。

 

2018年、デブリンはアメリカのメディアSyfyの取材に応え、トライスター版『ゴジラ』について「大きな間違いが作品の根っこにあった」と振り返っています。

 

theriver.jp


ファンに対して不誠実なゴジラ映画だった。ゴジラ愛のないエメリッヒを起用したことは問題だった。自分たちの作ったものはゴジラではなかった。そういった趣旨の発言がなされています。当時、製作の中枢にいた人物がこのように振り返っている以上、トライスター版『ゴジラ』が失敗作というレッテルを貼られるのは、もはや致し方ない気もします。


しかし、それでもこれだけは言っておきたい。エメゴジはファンを喜ばせる映画としては失敗したかもしれないけれど、ゴジラ映画本来の精神に帰ったリメイクという点では、決して失敗なんかしていないよ、と。

 

さて、ここまでエメゴジをひたすら愛でてきたわけですが、前述したように、この映画にはダメなところもきっちりあるわけです。そこを無視しては、エメゴジを語ったことにはならんのではないかと思い、【後編】では「エメゴジのここが残念!」というポイントについて、あーだこーだ書いていきます。

 

本記事は2020年9月11日にnoteで公開したものです。