悠田ドラゴのAll-Out ATTACK!!

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『パラダイス・アレイ』映画作家スタローンの初期衝動

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『ロッキー』に続くシルベスター・スタローンの主演作『フィスト』(1978年)は、彼にとってフラストレーションの残る作品だったようです。スライは同作について、次のようなコメントを残しています。

 

この作品はジュイソンの映画になってしまった。撮影が終ればクリエーティブな面でぼくはまったく参加できなかった。ラッシュ・フィルムすらまともに見せてくれない。撮影中ぼくが燃えた演技をしたところは一切使われなかった。ぼくはこの映画に出たことを自分自身に対して忠実ではなかったと思っている。
シルベスター・スタローン アメリカン・ドリームの復活』より
※ジュイソンとは監督のノーマン・ジュイソンのこと。


そうした不満のはけ口を求めていたのか、次作『パラダイス・アレイ』(1978年)では主演だけでなく監督・脚本・原作を兼任。さらには主題歌「Too Close To Paradise」のヴォーカル(!)までも担当し、まさに全身全霊をささげた一作となりました。


本作はスタローンの生まれ故郷であるニューヨークのスラム“ヘルズ・キッチン”を舞台にしており、主人公のカルボーニ3兄弟がイタリア系移民の親を持つ点も彼のバックグラウンドと一致します。それゆえ、スタローン作品の中で最も自叙伝的だと言われることが多い一本です。


この作品こそ、自分で書いたのだし、自分の生活そのものだし、監督第一作として、ぴったりだと思い、一人三役にとり組むことにした。
劇場用パンフレットより


『パラダイス・アレイ』のプロットは、『ロッキー』よりもずっと前に書かれたものでした。パンフレットのプロダクション・ノートによれば、最初に書き上げられたのは1970年頃。当初は“Hell's Kitchen”なるタイトルだったそうです。資料によってはシナリオが初めてできたのは1968年と書かれているものもありますが(『シルベスター・スタローン アメリカン・ドリームの復活』)、いずれにせよ駆け出しの俳優・脚本家であった下積み時代の初期に書かれた物語であることは間違いないでしょう。


この頃、スタローンは糊口をしのぐため『ザ・イタリアン・スタローン』(1969年/当時は未公開)などのポルノ映画に出演する一方で、図書館で古典文学を読みあさり、自身を売り込むための脚本を書き続けていました。その中のひとつが『パラダイス・アレイ』だったというわけです(ちなみに、最初の奥さんであるサーシャ・ツァックと出会ったのも1970年頃)。


どん底生活の中で彼が書いた物語は、社会の吹き溜まりとなっていた1946年のヘルズ・キッチンを舞台に、当時のスタローンと同様のどん底を生きる男達が、そこから這い上がろうとするものでした。スライが演じるコズモは、定職に就かず賭け事で稼いだり物乞いに扮して小銭を得たりしながら、何とか食いつないでいます。彼には2人の兄弟がおり、兄レニー(演アーマンド・アサンテ)は第二次世界大戦で負傷した片足に障害を抱えながら、葬儀屋の助手として死体処理の仕事を、弟で心優しい青年ビクター(演リー・カナリート)はその巨躯を活かし、氷屋の配達をしています。


そんな3人が一発逆転のチャンスをつかむために挑んだのが、“パラダイス・アレイ”というナイトクラブで開催されている賭けレスリングでした。コズモに言いくるめられたビクターが不承不承ファイターとして出場し、レニーはマネージャーとしてビジネス面を仕切ることになります。氷屋の仕事で鍛え抜かれた鋼の肉体を武器に、ビクターは連戦連勝。大いなる成功に向けて突き進んでいるように見えましたが、度重なる戦いによって痛ましい姿に変わっていく弟を前に、言い出しっぺのコズモの心は揺れ動き…というのが、『パラダイス・アレイ』の大筋です。


ここで唐突ですが、『ロッキー』のことを思い出してみます。同作におけるロッキー・バルボアのストーリーには、「チャンピオン:アポロを相手に最終ラウンドまで戦い抜いて、ゴロツキじゃないと証明する」という確固たるゴールがありました。アポロを倒すことではなく、自分自身に打ち勝つこと。それこそが本作でスライが伝えたかったメッセージの要諦であり、ロッキーにとっての勝利だった。


翻って『パラダイス・アレイ』はというと、実は『ロッキー』ほど構築され、カタルシスをもたらすゴールはないように思えます。地下レスリングで名を馳せ、いろいろあってバラバラになりかけた兄弟が最終的には絆を取り戻す。簡単に言ってしまうと、これが3人のたどり着いたエンディングなわけですが、有り体に言えば非常にモヤッとする終り方でした。というのも、コズモと兄レニーの間に生じた確執、そしてレニーの内面的変化に対する落としどころが用意されていない気がするからです。


戦争から帰ってきたレニーは厭世的な人間になり、どこか人生を諦めてしまっているようでした。しかし、ビクターを使って賭けレスリングで儲けようと企むコズモに反対して口論になり、やけ酒に寄った勢いでかつての恋人アニーのもとへ。彼女は自分を捨てたレニーのことを最初は拒みますが、押し問答の末、2人は愛を取り戻します。そして、ビクターのマネージャーとして自ら試合の交渉や金銭面を仕切るようになると、次第に別人のように変わっていきました。


ここで、ある逆転が起こります。先述したように、ビクターをレスリングに巻き込んだ張本人であるコズモは、弟の命がズタボロになっていくことを危惧して戦うのを止めさせようとしますが、レニーはどんどんビジネスにのめり込んでいき、かつて弟に向けていた優しさを失っていったのです。遂にはコズモの忠告も聞かず、3兄弟と因縁を持つ怪物のような巨漢フランキー(演じたのはプロレスラーのテリー・ファンク)とのビッグマッチを取り決めてしまいます。


このように『パラダイス・アレイ』においては、主人公コズモ以上にレニーという存在が劇的です。もちろんコズモも十分に魅力的な人物ですが、ドラマという観点ではレニーの方が吸引力がある。僕はそう感じました。


そのため、レニーがビジネスに目が眩んでビクターの命を危険にさらしたこと、それによってコズモとの間に生じた確執。そこに落とし前をつけてくれなければ『パラダイス・アレイ』の物語は気持ちよく終れないと思うのですが、本作はフランキーと死闘を制したビクターがある種の仲介役となり、兄弟が絆を取り戻すところで幕切れします。映画を観ているこちらも激戦の熱狂に飲み込まれ、その光景に思わず胸が熱くなるわけですが、冷静に考えると、レニーが抱えた問題はうやむやになったまま終っているわけです。


もちろん、何でもかんでもきれいにオチをつけるのが映画にとって良いことだとは断じて思いませんが、レニーの物語にはそれなりの落としどころが必要だったのではないのだろうか。その不足が、『パラダイス・アレイ』のカタルシスを減じているではないか…と、思わざるを得ないわけです。


実は、当初本作の脚本には暗くて悲しい結末が用意されていたといいます。そこをスタローンは大団円に書き換えたわけですが、それによってこういったモヤモヤが発生しているのかもしれません。


と、何だか偉そうなことをぶってしまいましたが、映像作家としてのスタローンの初期衝動が炸裂した『パラダイス・アレイ』には、忘れがたい素晴らしいシーンもたくさんあります。


わけても白眉だと思うのが、コズモとビッグ・グローリーの交流です。ビッグ・グローリーというのは、ビクターに敗れるまで“パラダイス・アレイ”で挑戦者を蹴散らし続けた黒人の大男で、長きにわたって戦い続けたファイターでした。


クリスマスの夜、コズモはフランキーと戦い、打ちのめされてしまったビッグ・グローリーを街へと連れ出します。2人はトラックでフランキーがいる酒場に突っ込んで一矢報いた後に、河のほとりで横になり、酒を飲み交わしていたのですが、矢庭に立ち上がったビッグ・グローリーは言いました。「ハッピーな夜に死にたい」。戸惑うコズモをよそに、ビッグ・グローリーは河の方へ身を投げますが、落ちた先はゴミ溜まりでした。しかし、ホッとして笑みをこぼすコズモの面前で尾羽うち枯らしたファイターは、冷たい水の中へと飛び込み、その暗闇に飲み込まれていったのです。


暖かい時間の中にぶち込まれた、突然の死。


それまでのユーモラスな演出があったからこそ、レスリングに身を捧げて魂をすり減らし続けてきた男の悲しさと侘しさが際立つ、名シーンだと思います。


ちなみに、『ロッキー』『フィスト』『パラダイス・アレイ』を見ていると、あるスライの哲学が浮かび上がります。それは、「気に入った女を落とすためには、気の利いたギャグをまくしたててデートに誘え!」です。きっと、これはスライが実際にストリートで培ったテクニックです。間違いありません。

 

本記事は2020年11月26日にnoteで公開したものです。