悠田ドラゴのAll-Out ATTACK!!

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『ランボー ラスト・ブラッド』阿鼻叫喚! 怒りの大復讐

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2019年秋、アメリカで『ランボー』シリーズの第5作にして完結編、ランボー ラスト・ブラッドが公開。その時点ではまだ日本公開が決まっておらず、数ヶ月経っても一向にアナウンスはありませんでした。日本では一体いつ観られるんだ…とやきもきしていると、いつの間にか本国で映像ソフトがリリースされてしまい、「これはもう我慢できん!」と昨年冬にBlu-ray個人輸入したわけであります。本音を言えば、一発目は劇場の巨大スクリーンで鑑賞したかったのですが、致し方ありません。


その後、2020年の2月になって遂に日本公開決定の一報が! いやあ、本当におめでたい、言祝ぐべきニュースでした。ところがその直後、新型コロナウイルス感染症の世界的流行により、公開が危ぶまれる事態になってしまったのです。しかし、当初の予定より2週間遅れたものの、『ラスト・ブラッド』は6月26日に無事封切られ、全国のスクリーンにその最後の勇姿が映し出されたのでした。


以下では、本作について思うところを書いていこうと思います。
【注】以下『ランボー ラスト・ブラッド』についてめちゃくちゃネタバレしています。


アメリカ版では削除された冒頭シーンの価値


まず、出だしからビックリしました。というのも、既にBlu-rayで『ラスト・ブラッド』を観ていたにもかかわらず、豪雨の中、山道で遭難したと思しきハイカーが鉄砲水に襲われる、見覚えのない物語が始まったからです。「まさか入る劇場を間違えのか…」と不安がよぎりましたが、最初にでかでかと『ランボー ラスト・ブラッド』の日本語タイトルが出てきたし、程なくして馬に乗ったスタローンが登場。ということは、まぎれもなく『ラスト・ブラッド』である。これは単に、アメリカで公開されたヴァージョンはこの冒頭のシーンなど数カ所がカットされており、日本公開版の方が12分ほど長い編集になっているだけのことでした。


このイントロダクションについて、もう少し詳しく紹介してみましょう。濁流が迫る山道に取り残された数人の男女を救助するため、ランボーは馬に乗って現場に駆けつけます。1人は何とか助けることができましたが、残りは鉄砲水にさらわれ、後で死体となって発見されました(正確にいうと、そのうち1人はランボーが到着した時点で既に絶命していました)。生存者を救急隊に預け、ランボーは馬にまたがり静かにその場を去ります。この去り際、保安官がランボーに礼を述べる場面があるのですが、その会話から我々観客は、ランボーがこれまでも度々人命救助に協力してきた事実を知ることができます。


ラスト・ブラッド』のランボーは故郷アリゾナの自宅で牧場を経営しており、古い友人であるマリアと、彼女の孫娘ガブリエラとともに平穏な生活を送っていました(ガブリエラとは養子縁組を結んでいます)。アメリカ版では上記した冒頭の人命救助シーンをバッサリ切り、このランボー、マリア、ガブリエラという3人の家族の日常からストーリーを語り始めています。この編集について、パンフレットに寄せられている映画評論家/ライターの尾崎一男氏のコラムには次のように書かれています。

 

スタローン自身が米「バラエティ」のインタビューで語ったところによれば「誰も泣きごとを言うヒーローなんて見たくないだろう」と、冒頭を説明的だと判断し、メインストーリーへの早い到達を優先したという(※)。
https://variety.com/2019/film/news/sylvester-stallone-rambo-last-blood-1203337054/
註:「泣きごと」というのは、ハイカーを全員助けられず、落ち込みながら帰宅したランボーを、マリアが励ます場面のことを指しているのだと思います。


冒頭のシーンを入れるとランボーの人物描写がくどくなり過ぎるので、あえてカットして本筋に近いところから映画を始めた、というのがスタローンの意図だったようです。たしかに、ここを削除しても『ラスト・ブラッド』の物語は十分成立しますし、いきなり本筋から入ることで物語のテンポ感も早まっていると感じます。ただ、これが本筋に対して蛇足、あるいは単にランボーの活躍を見せるためのサービス・カットだったかというと、決してそうではないと思います。


『最後の戦場』のエンディングで久々に故郷へ戻ってくるまで、ランボーは天涯孤独で、彼の心が穏やかだったことはありませんでした。それどころか、故郷に帰ってからもベトナムの悪夢は、彼を蝕み続けていたのです。牧場の地下にまるでベトナムの戦場を再現したかのような巨大なトンネルを掘ったり、そのトンネルで武器をこしらえたり、多量の精神安定剤を服用していたり、常人からすれば異常な行動をとり続けています。どれだけ年月が経とうとも、戦場という地獄が彼の心に刻んだ深い傷は、決して癒えることがなかったのです。


しかし、そんな傷をかかえながらも、マリアとガブリエラという家族に恵まれ、彼はやっと“人間らしさ”を取り戻すことができました。それだけでなく、ランボーは自らの意思で人命救助に参加し、保安官からも頼りにされる存在となっている。これは、帰るべき場所がなく根なし草のように世界をさまよい、社会から拒絶されていた一作目の『ランボー』の状態とはまるで正反対です。かつて自分を排除しようとした社会で、彼はとうとう自分の居場所を見つけることができた。


こうした『最後の戦場』以後の、映画では語られていないランボーの物語を、冒頭のシーンは少ない時間ながら我々に伝えてくれているような気がします。その意味において、人命救助のシーンには残されるべき価値があると思うわけです。


シリーズ最大の怒りが吹き出す阿鼻叫喚のクライマックス


今作の物語の本筋は非常に単純明快で、「父親による娘の仇討ち」です。ランボーにとって血のつながった娘同然の存在であるガブリエラは、メキシコにいる旧友ジゼルから、自分と母親(既にガンで他界)を見捨てた本当の父親の居場所を知らされます。

「なぜ私たちを捨てたのか?」そう直接本人に問いかけたい一心で、ランボーとマリアの反対も聞かず、彼女は単身メキシコへ。ところが、久々に再会した父親がガブリエラに投げかけた言葉は、「お前とお母さんは俺にとって邪魔者だった」という、あまりにも血の通っていない冷酷なものでした。


さらに悪いことに、親切にも父親の居場所を教えてくれたジゼルは、実はガブリエラの切なる思いなどには全く関心がなく、はじめから彼女をウーゴとビトのマルティネス兄弟が仕切る人身売買カルテルに売り飛ばすことが目的だったのです。ジゼルの思惑通り、ガブリエラは囚われの身となり、彼らの“商品”となってしまいます。


一方、行方不明となったガブリエラを探し出すためメキシコへやってきたランボーは、ジゼルを通じてガブリエラを買った男に接近。その男を捕まえて(このとき、素手で鎖骨を引き抜くという、常軌を逸したランボー流尋問術が炸裂!)、彼女がいる娼館へと案内させます。しかし、潜入しようとする途中で大勢の敵に囲まれてしまい、容赦ないリンチを受け、ランボーは瀕死の状態に。運良くカルメンというジャーナリスト──彼女もまた妹を組織にさらわれ、殺された過去を背負っていました──に救い出され、何とか命を取り留めます。


4日かけて動けるまでに回復したランボーは、娼館を急襲し、ついにガブリエラの奪還に成功。ところが幾度となくレイプされ、多量の薬物を打ち込まれた彼女の身体は既に満身創痍で、もはやその命は風前の灯火でした。ガブリエラはランボーの姿を確認し、安堵の涙を流しながら、アリゾナへ戻る道中で息を引き取ります。


ランボーに生きる意味と喜びを与えてくれた家族を、マルティネス兄弟は虫けら同然に扱い、精神的にも肉体的にも破壊し尽しました。これが引き金となり、ランボーは今一度心の奥底で眠っている殺人マシンを呼び覚まし、亡き娘のため組織に復讐を誓う…。以上が大雑把な話の流れです。


ここからランボーによる阿鼻叫喚の復讐劇が幕を開けるわけですが、シリーズ最大級の“怒り”が爆発するクライマックスは、ヴァイオレンスの華が一気に開花し、序盤〜中盤とは全く違う異様な空気をまとって突き進んでいきます。前作『最後の戦場』における酸鼻をきわめた戦場描写も暴力表現の極北と呼ぶべき凄まじいものでしたが、『ラスト・ブラッド』の終盤もそれに比肩する残虐描写がてんこもりです。

 

密かにメキシコに舞い戻ったランボーによって弟のビトを惨殺されたウーゴたちは、軍隊並の武装をして、アリゾナランボー宅を急襲します。しかし、そこにはトンネルのそこかしこにブービートラップを仕掛け、準備万端、殺気120%の鬼ランボーが待ち受けていました。ウーゴたちは数十人の軍団で、ランボーにとっては多勢に無勢のように思えますが、あまりにトラップが用意周到すぎて全く隙がなく、ウーゴの部下達はほとんど反撃する機会も与えられないまま、凄い勢いで殺されていきます。


それぞれのやられ方も凄まじく、爆死、焼死、銃殺、串刺し…等々、死に方のヴァリエーションには事欠きません。かのサノスですら攻略不可能なんじゃなかろうかというランボー流“超・戦慄迷宮”を前に、ウーゴ軍団はもはや怯えきっているようにすら見えます。トンネルはランボーが自ら作った擬似的なベトナムの戦場であり、彼の心の闇を象徴する場所でもあります。つまり、殺人マシンとしてのランボーが安住できるホームです。彼がその残虐性を遺憾なく発揮できるトンネルにまんまと誘いこまれた時点で、ウーゴたちに勝ち目はなかったといえるでしょう。


部下を全員失ったウーゴは、爆発によって崩れ落ちるトンネルから逃げ出し、地上の倉庫へとたどり着きますが、そこでランボーの放った弓矢によって四肢を射抜かれ、はりつけ状態に。身動きの取れないウーゴにランボーは「これが俺の味わった痛みだ」と言い放ち、彼の胸に短剣を突き刺して胸部を切り裂き、心臓を取り出します。辛い思いをすることを「胸が痛む」と表現しますが、それを大胆にもそのまま画にして見せるこの壮絶きわまりないシーンで、ランボーの復讐は幕を閉じたのでした。


このように、ウーゴ軍団が全滅する最後のシークエンスは、もはやスプラッター・ホラーの趣すらあります。自らの縄張りにやってきた人間を次々に狩っていく様は、ジェイソンが若者を殺してまわる『13日の金曜日』シリーズに近いような感じです(そういえば、ウーゴが心臓を引っぱり出された倉庫は、『13日の金曜日 PART3』のそれを思い起こさせます)。


すべてをやり遂げたランボーは、自宅の玄関の前に置かれたロッキング・チェアに腰掛け、牧場に目をやります。そこには、硝煙が漂い死体が散乱する、戦場としかいいようのない光景が広がっていました。故郷に戻り、心の安寧を取り戻したランボーでしたが、とどのつまり戦場に戻ってきてしまったのです。こうして、何とも筆舌に尽くし難い感慨を観客に抱かせて、映画は終わります。人生の終着点に差し掛かってもなお、戦いの中で生きることを迫られたジョン・ランボー。そんな彼を巡る理不尽な物語が持つ意味を、これからも考えていきたいと思います。

 

本記事は2020年7月3日にnoteで公開したものです。