悠田ドラゴのAll-Out ATTACK!!

悠田ドラゴのAll-Out ATTACK!!

カテゴリーをご覧になれば、どんなブログかだいたい察しがつくかと思います。

山崎貴版ゴジラ 最後の妄想

7月11日、午後8時。「ゴジラ最新作」のツイッター・アカウントを開く。
ただタイムラインを更新するだけにもかかわらず、胸の鼓動が激しくなった。
SNSをのぞくだけで、これほど緊張することもない。

その日のその時間、正式に何か発表があると予告されていたわけではなかった。
6月12日からツイッターやアプリの「ゴジラ+」で突然始まった、国産のゴジラ作品を『シン・ゴジラ』から順に、年代を遡る形で列挙していく「出現情報」と題された投稿。
それは明らかに何かに向かっているカウントダウンであり、初代『ゴジラ』の投稿がなされた7月10日には、翌日何らかの発表があるに違いないと、多くのファンが色めき立った。

2023年11月3日に公開。監督・脚本・VFX山崎貴。その程度の情報だけが出され、タイトルも明かされていなかった国産ゴジラの最新作。
その内容が遂に詳らかになると期待して、件の日時にツイッターを更新すると、たしかに新情報が現れた。

12日AM4時解禁。

予告の予告だった。肩すかしを食らったような、ほっと安堵したような、何とも言えない気持ちが去来した。

そんなわけで、間もなく日付が変わって12日になろうとしている現在、落ち着かず、そわそわとした心持ちで、この文章をしたためている。

あと4時間もすれば、どの程度まで中身が曝け出されるのか判らないにせよ、ゴジラ新作はいよいよ何かしらの実像を伴って、我々の前に現れる。
そうなれば、否でも応でも、新しいゴジラのことを自由に想像するのは難しくなる。
未知の山崎貴ゴジラのことを、ほとんど制約なく妄想できる最後のチャンスが、今この瞬間ということなのだ。

であれば、ここに最後の妄想を繰り広げてしまおう。

振り返れば、『シン・ゴジラ』以後大きな動きがなかった実写の国産ゴジラだが、2022年2月、その界隈がざわつき始めた。
ネットで公開されたのは、東宝の新作映画のエキストラを募るページだった。
作品名は伏せられ、「超大作怪獣映画」(仮題)とされていたが、この時点で監督が山崎貴であることは公表された。

東宝が制作する「超大作怪獣映画」と聞いてゴジラを想起することは、あまりに容易い。
懐疑的な意見もあったが、多くの人は『シン・ゴジラ』以来、久々に日本の怪獣王が復活することを期待した。

そのエキストラ募集の文面では、「映画の時代設定」という項目があり、こう書かれていた。

1945年〜47年戦後の日本

この一文が、ファンの想像を大いに刺激した。
初代『ゴジラ』の物語よりも前、まだGHQ占領下にあった日本を舞台に、ゴジラ映画を作ろうとしているのか。

かつて洋泉社から刊行された『新世紀特撮映画読本』に、批評家・切通理作と娯楽映画研究家・浦山珠夫による山崎貴をテーマにした対談が収録されている。
そこで切通はこんなことを言っている。

僕は初代『ゴジラ』とか『キングコング対ゴジラ』のリメイクみたいなものを、あの時代でやってほしいです。(中略)兵器とかも当時あったものしか使わずに。

「あの時代」というのは映画『三丁目の夕日』の時代設定のことを指し、1945年〜47年とは異なるものの、切作が希望していた初代『ゴジラ』のリメイクという線は、かなり濃いという気もする。

だが、それならば、あえて初代『ゴジラ』よりも前、戦後間もない時代に遡って、再びゴジラを描く、その狙いは何なのか。
1945年に広島と長崎を蹂躙した原爆を、ゴジラ誕生にからめるのか? そんな可能性も頭に浮かぶ。

または、初代『ゴジラ』の前日譚という可能性はどうだろう。
大戸島周辺で、不気味な光に包まれて漁船が破壊されるよりも以前、実は既にゴジラが日本に上陸していた。
どうやってゴジラ出現の事実が隠蔽されたのか疑問だが、これもできないことはないだろう。

あるいは、史実にとらわれず、仮想の戦後日本が舞台ということだってあり得る。
何らかの事情で、アメリカや中国との戦争に敗北せず、天皇を頂点とした帝国として生き残った日本。
この全体主義軍事国家を、ゴジラが襲う。リメイクとは様相が違ってくるが、これはこれで、面白そうだ。

さらに突飛な考えを持ち出すならば、タイムワープはどうだろう。
山崎貴の初期監督作『ジュブナイル』『リターナー』は、いずれもタイムワープが物語の重大な要素だった。
今回の新ゴジラも、始まりは現代であり、そこには人類の手に負えない強大な破壊神ゴジラによって焦土と化した日本の風景が広がっているかもしれない。
そこで、ゴジラがはじめて出現した戦後日本にタイムワープし、今ほど強大でなかった破壊神に挑むという時間改変作戦が決行されるのである。

何だか似たようなプロットが、金色の三首龍が登場する作品にあった気がするが、それはどうでもよかろう。

取り留めのない妄想も、そろそろ終わらなければいけない。
気がつけば、あと数時間で山崎貴ゴジラの何かしらが解禁される。

唐突だが、郷内心瞠の小説『拝み屋怪談 壊れた母様の家<陰>』『〜<陽>』には「造り神」なる存在が出てくる。
字の通り、本物の神ではなく、人間の思いが造り出したまがい物の神である。
それは人間の思いの強さに比例して、とてつもない力を手にすることもある。

この小説を読みながら、ゴジラも「造り神」のようなものだなと思った。
ゴジラは映画の中だけの存在ではなく、多くの人々の中に思い思いのゴジラがいる。
それぞれの思いが作り出した、理想の神としてのゴジラが存在している。
映画で映し出されてきたゴジラも、ある意味、作り手達の思いが結集した「造り神」ではないか。

私も自分の「造り神」としてのゴジラを持ち、それを圧倒する、思わず畏怖してしまうようなゴジラをスクリーンで見たいと願っている。
山崎貴が生み出した「造り神」ゴジラが、そのような存在であることを祈っている。
間もなく、その姿が目の前に現れる……(のか?)。

#ゴジラ #山崎貴

 

『シン・ウルトラマン』で陥った思考地獄

【注】ネタバレありです。


5月13日、レイトショーで『シン・ウルトラマン』を観ました。


劇場はほぼ満員で、男性が多い印象でしたが、女性もちらほら。おじさんだらけという印象はなく、若い人もけっこういたと記憶しています。


これほど大入りの劇場で映画を観るのは何だか久々で、しかも作品が待望の『シン・ウルトラマン』ということで、いつになく高揚していました。緊張すらしていた気がする。


上映時間、113分。


本編が終わり、エンドロールが流れている間、頭に浮かんで来たのは「変な映画」という表現でした。


変な映画、いっぱいあります。大好きな変な映画もあれば、良く思わない変な映画もある。はたして、『シン・ウルトラマン』はどっちの「変な映画」になるのか。今も自分の中では思考がグルグルと無限地獄にはまってしまい、答えを出しかねています。


心躍るシーンは間違いなくあったし、できるだけたくさんの人が劇場に足を運んで、『シン・ゴジラ』並のヒットになればと応援したい気持ちは大いにある。

こんな映像を完成させた作り手の皆さんには、最大級の敬意を抱いています。


ただ、『シン・ウルトラマン』を観てもの凄く感情を揺さぶられることは、残念ながらありませんでした。ストーリーに心地よく乗ることができたのかと言えば、僕はできませんでした。だから、「上映中ずっと興奮しっぱなしだった!」とか「最後の戦いでは、思わず前のめりで応援してしまった」といった感想を目にすると、とても羨ましい。皮肉ではなく、本当にそう思います。


なぜ自分は、そういった体験をすることができなかったのか?


ウルトラマン愛が足りないから。ウルトラマンというキャラクターや作品に対する理解が足りないから。そう言われれば、そうなのかもしれない。


しかし、それだけではない部分もあるんじゃないかと、もやもや考えてみました。



①いまいちつかめないリアリティ・ライン


本作の世界観を緩めにしたかったので、政府系組織内の設定等も『シン・ゴジラ』に比べてかなりフィクション寄りにしてます。──中略──現実的な印象を観客が最低限持てば良いような世界観を目指しました。


これは書籍『シン・ウルトラマン デザインワークス』の中に収められている、本作の企画・脚本・編集等を担当した庵野秀明氏の手記の一文です。かなりフィクション寄りにしている、つまり『シン・ウルトラマン』は我々が生きている現実とはだいぶ異なる世界の話、と言うことができるでしょう。


リアリティがない世界観でウルトラマンを描く。それは全く問題ありません。実際、多くのウルトラ・シリーズの作品は、我々の社会とはかけ離れた社会を描いており、我々はそれを楽しんできました。(怪獣がいることの非日常性ということではなく、怪獣が現れる人間社会のリアリティについて話しています)


ただ、『シン・ウルトラマン』は現実社会に則した世界の皮をかぶりながら、その中身がかなりフィクショナルである点が、実は厄介なのではないかと感じています。観客がどういった世界観の話として観ていけばよいのか、物語の早い段階で判断しにくいと思うからです。


これは個々の没入の仕方や先入観の問題に過ぎないのかもしれませんが、私自身は、『シン・ウルトラマン』をどういうスタンスで観るべきなのかわからず、物語がかなり進行するまで宙ぶらりんな感じでした。


先の庵野氏の言葉通り、本作はフィクション寄りの世界観だと認識した上で観ないと、引っかかる部分が多く、物語に上手く乗れないと思います。ところが『シン・ウルトラマン』は、一定のリアリティさを確保しようとする要素が、物語に入り込むのを阻害していると感じます。


例えば、禍特対のメンバーはしっかりスーツを着用し、パッと見のルックは一般的な組織の人間です。初代マンの科学特捜隊のように、「これは現実世界には存在しない、特別な集団だ」と直感的に判断できるコスチュームは身につけていません。また、属国がどうだとかポリティカルな会話も度々登場しますが、これも中途半端にリアリティさを醸し出し、フィクションの世界に全力で飛び込ませてくれません。


端的に言えば、リアリティを感じさせる部分と、物語のフィクション性の高さに乖離があって、食い合わせが悪いと感じるのです。


あんだけオープニングから怪獣が出てくるんだから、そういう世界観なのはわかるだろ!と突っ込まれたら、たしかにそうなんですが……。『シン〜』というタイトルを意識するあまり、『シン・ゴジラ』を踏まえた偏見を持って臨んでしまった自分の問題であるという点も否めない。


もうこれは、主観の問題ということで先に進みましょう。


②そんなに人間が好きになったの……か? ウルトラマン


「そんなに人間が好きになったのか、ウルトラマン


初代ウルトラマンの最終回で、自分の命をハヤタにあげたいと言ったウルトラマンに、ゾフィが返した言葉です。『シン・ウルトラマン』では、これと同じ会話が、同じシチュエーションで再現されています。


ウルトラマンが人間に対して抱いた愛情の深さを示す、重要な言葉だと思います。


しかし、『シン・ウルトラマン』におけるこのゾフィ(正確にはゾーフィですが)の言葉は、初代マンとそれと同じくらい重みを持っているのでしょうか。


初代ウルトラマンは全39話のエピソードを重ねる中で、ハヤタを介して様々な人物に触れていきました。その中には科学特捜隊の隊員だけでなく、多くの市井の人々も含まれます。大人も子どもいます。


その交流があったからこそ、ウルトラマンが人間という生き物に魅せられていったという事実には、説得力が生まれます。


翻って『シン・ウルトラマン』は、そういった人間を学ぶプロセスの描写が、ほとんどなかった印象です。ウルトラマンと融合してからの神永は、(特にガボラ戦の後から)無断欠勤を繰り返し、禍特対メンバーとはかなりの時間、没コミュニケーション状態にありました。


その間、一般市民と交流していたような様子もなく、図書館(?)でレヴィ=ストロースの本とかを読みあさったり、ザラブに誘拐されて軟禁されたり、メフィラスと居酒屋でだべったり、そんな調子です。


そして、いざクライマックスに入る頃には、いつの間にか抱いていた人間への惜しみない愛を口にし、ゾーフィと対峙し、ゼットンとの絶望的な戦いに身を投じていきます。


それから自らを犠牲にしてゼットンを倒し、件の「そんなに人間が好きになったのか、ウルトラマン」パートに入るわけですが、このようにウルトラマンが人間の価値を認識するプロセスが(少なくとも劇中の描写としては)ほとんどないため、そんなに人間が好きになったように感じられないわけです。


いや、ウルトラマンは最初のネロンガ戦で、自分を犠牲にして男の子を助けた神永の献身に心を打たれた。その時点で、人間に魅了されていたんだ。そういう解釈もあるでしょう。


ただ、そうなってくるとガボラ戦〜メフィラス戦は、ゼットンが登場するまでのお膳立てでしかなく、非情に空虚なプロセスになってしまいます。また、樋口真嗣監督は次のように説明しています。


この映画では禍特対メンバーの個性が、非情に重要でしたから。ウルトラマンが人間を受け入れ、人間もウルトラマンを受け入れるまでの物語なので、ウルトラマンである神永が直接出会う、いわば人間代表としての禍特対の面々が魅力的でなくてはいけなかったんです。


『シン・ウルトラマン』は、「禍特対メンバーとのつながりによって、ウルトラマンが人間という生き物の尊さを知り、自らの命を賭して人類を滅却から救う話」だと要約できると思います。ところが、人間の尊さを知るという描写が不十分なため、そんなに人間が好きになったという結論へと確信を持って着地ができない。その点が、クライマックスの盛り上がりを削ぐ要因でもあると考えます。


しかし、こういう意見もあると思います。


いや、ウルトラマンはそもそも本質的に慈愛の戦士であり、そんなプロセスを経なくても人類愛を持つに至るのだ。


たしかにウルトラマンは宇宙人であって、地球人ではありません。人間と同じような思考で、愛だとか命の尊さを理解するとは限りません。


うーん、ますますわからなくなってきました。



③連続ドラマ性の再現


5本のエピソードをチョイスして、単純に数珠繋ぎすれば映画になるかといえば、そうでもないんじゃないかと。そこは脚本の庵野秀明が、30分でしかできない物語を繋ぎながら、ちゃんと2時間の映画として収まりどころを含めて、見事に形にしてくれました。


そう樋口監督はおっしゃっていますが、私は一本筋の通った映画とは感じられず、どうしても5本のエピソードをまとめた総集編的な感じが拭えませんでした。それはひとえに、全編を貫く物語の芯が、弱いためではないかと思います。


例えば『シン・ゴジラ』のストーリーは、「はたして日本はゴジラを倒せるのか」という強固な背骨に支えられていました。その強い芯があるからこそ、最後まで「どうなるんだ?」という興味が持続する作劇になっていたと思います。


その点、『シン・ウルトラマン』にはそれくらい強い物語上の背骨がないと思うのです。というか、5つのエピソードによってぶつ切りにされているため、怪獣や外星人を倒す度に一区切りつく感じが、物語を転がせる流れを停滞させているような気がしました。


登場人物の気持ちが物語を押し進めるのではなく、次々と怪獣・外星人が現れては、それに対処するためウルトラマンと禍特対が与えられた設定のままに動き、ひとつひとつ仕事をこなしていく。そんな段取り臭さが拭えなかったのです。


これについては、むしろ『シン・ウルトラマン』は、そういった連続ドラマのような「次はどんな怪獣が出てくるんだろう?」という楽しみを、一本の映画内で再現してみせたところが素晴らしい。そういったご意見も目にしました。


それはたしかに一理あるなと思います。ネットで報告されている、「どうやら『シン・ウルトラマン』は小さい子どもの受けが良いみたい」という傾向は、擬似的な連続ドラマ形式だからこそ引き出せた結果なのかもしれません。


子ども達が新しいウルトラマンに熱狂しているのは、それだけで素晴らしいことだし、私のようないい大人がブーブー言うのは恥ずかしいことのようにも思えてきます。


ただ、そういう連続ドラマ性を再現するのであれば、映画ではなく配信ドラマとかの方が良かったんじゃないか?と思ってしまうのも、また正直なところで……。しかし、映画館の大スクリーンで観ることができないとなると、それは嫌だ。であれば、やっぱり映画館で公開してくれたのは、ありがたい……


こうして『シン・ウルトラマン』のことを考えれば考えるほど、抜け出すことのできない思考地獄に陥ってしまいました。


助けて!ウルトラマン


ちなみに……

これは完全に感覚の問題だと思いますが、今回の会話のリズム、というかグルーヴがあんまり上手くいってないように感じました。カッティングのテンポ感とかは『シン・ゴジラ』っぽいんだけど、似ているようで何か違う。上手くリズムが取れてないというか、とにかく違和感があった。正直、序盤で没入することにつまずいたのは、この違和感が大きかったと思います。

ソフトが出たら、『シン・ゴジラ』と何が違うのか、じっくり比べてみたいです。


#シンウルトラマン

ムカデ犬の写真を見つめるハイター博士

道端に停めた車の中で、物憂げに写真を見つめる一人の男。そこには、数匹の犬が写っている。おもむろに、男は指で写真を優しくなでた。その犬たちは、口と尻がつながれている。男の表情は、憂いに満ちていた。

映画『ムカデ人間』は、こんなシーンで幕を開けます。犬の写真をながめているのは、ヨーゼフ・ハイター博士。複数の人間を口と肛門で連結させるという変態アイデアを実現させた、ムカデ人間の創造主です。写真の“ムカデ犬”は、人間をつなげる前に愛犬で件のアイデアを試した結果生まれた、博士の創造物1号(多分)。一応手術は成功はしたものの、結局命を落としてしまい、博士はその死を悼んでいたのです。

そういった背景を抜きにして『ムカデ人間の冒頭シーンを見ると、ハイター博士は亡き愛犬を偲ぶおじさんに過ぎません。しかし、なぜワンちゃんたちが死んでしまったかといえば、そもそもの原因は博士の異常な変態実験なわけです。つまり「お前のせいじゃねえか!」と。勝手な手術で殺しておきながら、その死を悲しむというのは、何だか倒錯的な感情のように思えます。

これに似た違和感を、ウクライナを巡る一部のネット上の言説におぼえました。驚くべきことに、ある人達は、ロシアの侵攻を受けるウクライナに、太平洋戦争末期の大日本帝国の姿を重ねて“共感”しているというのです。

言うまでもなく、日中戦争太平洋戦争の口火となったのは日本の軍事行為です。あの戦争において、日本は侵略者でした。どんな大義名分があろうが、あるいは国際的な外的圧力があったにせよ、それは否定することのできない事実です。

終戦間際、たしかに日本はソ連軍による不当な領土占拠や、原子爆弾投下という米軍の大虐殺など、あまりにも非道な仕打ちを受けました。ただそれは、日本が始めた侵略行為の帰結であり、引き際を失った日本政府によってもたらされたものであり、当時の為政者達の外交努力によって避けることが可能だった事態でもあります。

よって、侵略者・日本の成れの果ての姿と、いまロシアの愚行に対して抵抗するウクライナの姿を重ねることは、後者への侮辱に他ならないと思います。それでも、“自分が見たい歴史”、自分にとって“都合のよい歴史”に囚われている人々がいます。彼らにとって、傀儡国家・満州が脅かされることとウクライナが攻撃されていることは、同じように見えるし、ウクライナに残って戦う民間人は、特攻隊の姿と重なってしまう。

それはもはや、ハイター博士の倒錯的な精神状態に近いような気がします。ですので、早稲田大学のA教授のことを、これからハイター教授と呼ぶことにしたいと思います。

『ミスト』のカーモディ婦人と"核共有"扇動者たち

フランク・ダラボンが監督した映画『ミスト』は、あまりに救いのない意地悪で絶望的な幕切れ故に、バッドエンドの代名詞のように語られることが多い。たしかに、本作が原作の小説に則した一抹の希望を抱かせる終わり方であったなら、ここまで語り種になる映画にはならなかったのかもしれない。

しかしながら、映画『ミスト』はその悲劇的結末がなければ凡作に過ぎないのかというと、全くそんなことはない。むしろこの映画の白眉は、原作でも丁寧に描かれていた、主要な舞台であるスーパーマーケットでの登場人物たちの心情的変化を見事に映像化して見せたという点にあると思う。

主人公の画家ドレイトンが息子とスーパーで買い物をしていると、街が正体不明の霧に覆われてしまう。その中には、異形の怪物が潜んでおり、他の客たちとともに、主人公はスーパーでの篭城を余儀なくされる。

怪現象に遭遇した人々は、不安に苛まれ、侵入してきた怪物の攻撃による犠牲者が増えるにつれ、抗し難い恐怖に飲まれていく。そうした集団心理を(図らずも)味方につけ、スーパーに留まる大半の人々の心を掌握したのが、カーモディ婦人だった。

彼女は敬虔なキリスト教徒であり、霧と怪物は神が人類に下した罰だとうそぶく。当然、カーモディの話を真に受ける人はほとんどいなかった。

ところが、霧がもたらした恐怖は、カーモディに対する人々のまなざしを一変させる。惨い死を次々と目の当たりにし、彼女の言う事がでたらめには思えなくなってくる。どんなに荒唐無稽な話であろうと、それを信じることで救われるような気がしてしまう。あるいは、他に頼るべきものがないと思ってしまう。

自身を神の使いだと信じきったカーモディと、彼女の大演説の虜になる大人たち。スーパーに集った人々は、もはや彼女を頂点とするカルトと化した。彼らは遂に、一線を超える。霧の秘密を知っていた──ただそれだけで罪を犯したわけではない若き軍人を「ユダ」とののしり、生け贄として外の怪物に差し出してしまうのだ。その狂気から逃れようとドレイトンを含むグループは脱出を図るが、カーモディらに囲まれてしまう。彼女が「子どもを差し出せ」と叫び、信者たちはナイフを手に襲いかかる……。

言うまでもなく、我々が『ミスト』の世界と同じ危機的状況に陥ることは考えにくい。ただ、それは「化け物だらけの霧に囲まれる」という特異なシチュエーションに限って言えばだ。『ミスト』の状況を抽象化し、「恐怖に囚われて扇動者の意のままになる」と考えれば、これはいくらでも現実に起こりえる。むしろ、いまこの日本で起こっていると言えるかもしれない。

プーチン大統領ウクライナ侵略という歴史的愚行の影響は、海で隔たれた日本にも及んでいる。外交や経済、そして心情的な面でだ。

いつか日本も、ウクライナのような状況になりかねない。他国から侵略されてもおかしくない。プーチンの狂気が、他の独裁者たちに活力を与えてしまったかもしれない。そういった不安や恐怖が、現実世界からSNSを中心とするネットの世界にまで蔓延している。

そこに投げられたのが、“核共有”という考え方だった。非核三原則の内、「持ち込ませない」の項目を破り、アメリカの核兵器を日本に配備する。それにより抑止力を高め、他国からの攻撃を防ぐ。簡略に言えば、そういう理屈だ。

この理論のシンプルさは、焦燥感に駆られ、何かにすがりたいと欲する弱った心に刺さりやすい。ウクライナから広がった不安や恐怖によって、“核共有”という考え方が受け入れられやすい空気が醸成されている。そんな気がしてならない。『ミスト』の老婆がとうとうと述べる荒唐無稽な終末論に、スーパーの人々が陶酔していく様が思い浮かぶ。

私は国際政治についても軍事についても全くの素人だが、一部の政治家や著名人が説く“核共有”は何か空虚で中身のないものに思えてならない。そもそも、日本に核を配備するという大転換を、国際社会にどう説明し、どう納得してもらうのか。そのための道筋は全く見えてこない。

あるいは、日本に核を置くと宣言すること自体、他国が日本を攻める口実になってしまうことはないのだろうか。自ら侵略される大義名分を与えてしまうことにならないのだろうか。そういった疑問は尽きない。

“核共有”を主張する人達の頭には、日本を守るためとか、大国に対抗するためとか、大層立派な言葉が躍っているように思う。ただ、軍事的な文脈における“核共有”の意義を主張する前に、まずやるべきは、「核を持ち、使う覚悟があるのか?」と国民に問うことではないのか。

あくまで抑止力として、アメリカの核を置くだけに過ぎないとしても、日本国民がその所持の責任から逃れられるわけではない。日本に核を置くということは、それを他国に対して打ち込む可能性を了承することに他ならないからだ。

核兵器を使う。この短い文の中に、無数の本ができ上がるほどの悲劇と恐怖が詰め込まれている。ほんの少し列挙してみたい。

核兵器を使うとは、とてつもない高温の火球によって多くの人間を蒸発させ、消し去ることである。

核兵器を使うとは、爆風によって内臓を破裂させるなど、人体を惨く破壊することである。

核兵器を使うとは、人の表皮を焼き、神経を剥き出しにさせ、感じ得る最悪の苦痛を与えることである。

核兵器を使うとは、放射線によって人々の細胞を破壊し、殺すことである。

核兵器を使うとは、救助活動にあたる人達をも、残留放射能によって破壊することである。

核兵器を使うとは、街を破壊し尽くすだけでなく、放射性物質をばらまき、生き物が住めない土地を作り出すことである。

核兵器を使うとは、市民の生活と人生を奪いさることである。

核兵器を使うとは、傲慢で愚かな為政者の手によって、無辜の人々を地獄に突き落とすことである。

核兵器を使うとは、バカの極みである。

“共有”という言葉に惑わされてはならない。それを自国に置く以上、誰かの頭上に落とす可能性があることを我々は覚悟しなくてはいけない。その覚悟が、あるのだろうか?

付言すれば、核の矛先は他国とは限らない。自国の領土に打ち込む可能性だってあるのだ。『未知への飛行』という冷戦時代を舞台にした映画がある。アメリカ空軍が誤ってモスクワを核攻撃してしまい、全面核戦争を回避するため、米大統領がニューヨークにも核を打ち込んで事態を収拾させるという、笑えない冗談のような物語である。ただ、核を抑止力として持つとは、このような事態──自分達の核で自国の民を焼き殺すという可能性も含んでいることは否定できないであろう。

核兵器による国家間のパワーゲーム。そんなくだらない駆け引きの代償を払わされるのは、政治家でも軍人でもなく、多くは無辜の市民だ。そのことを忘れて、“核共有”の議論など始められるわけがない。

映画『さがす』と冷たい殺人者たち

【注】以下文章は映画『さがす』を既に鑑賞している方に向けて書いたものです。

2017年10月。神奈川県座間市のアパートで、9名におよぶ男女の遺体(内8名は女性)が発見された。被害者の頭部や骨が、クーラーボックスとRVボックスに詰め込まれていた。犯行現場となった部屋の住人である白石隆浩は、殺人や死体損壊などの罪で起訴され、2021年1月に死刑が確定している。

彼はわずか数ヶ月の間(8月下旬〜10月下旬)に、たった一人で九人もの殺害・解体を完遂した。風呂場で遺体を切断し、頭部以外の肉はゴミとして捨てた。類を見ない犯罪であるのは言うまでもない。ミルウォーキーの食人鬼として知られるジェフリー・ダーマーですら、これほどのペースで殺した時期はなかったのだ。

白石が短期間に犯行を重ねることができたのは、SNSを使い、簡単に獲物を探すことができたからである。彼は「首吊り士」といった複数のTwitterアカウントを使い、自殺願望や人生に対する絶望を吐露しているユーザーに接触DMで自殺幇助を申し出るなど、狙いをつけた人物を自室に誘導し、その場で殺害した。

犯行のほとんどは、縄や腕で首を絞め、失神したところをレイプし、ロープで首を吊って息の根を止める、という手順を踏んでいる(中には屍姦された被害者もいる)。そして殺した相手の金銭を奪い、遺体を処理した。この男を凶行に駆り立てたもの。それについて本人は、「自分のお金が欲しい、性欲を満たすため九人を殺しました」と供述している(※1)。

片山慎三監督の映画『さがす』をご覧になった方であれば、同作に登場する殺人犯“名無し”こと山内照巳が、白石を投影したキャラクターであることに気づくだろう。映画にはモチーフになった事件がいくつかあると片山監督が述べているが、そのひとつが白石の事件であることに疑いの余地はない。

SNSで自殺願望を抱く女性を探し出し、殺して金銭を奪う(もしくは報酬として本人やその家族に金銭を要求する)。名無しの場合は、女性を犯すのではなく、遺体に白いソックスを履かせ、それを眺めて自慰するという形で、まるで儀式のように歪んだ性欲を満たしていた。映画では、解体した遺体を隠すクーラーボックスも再現されている。

『さがす』は、こうした名無しの凶行に巻き込まれた、父・原田智と娘・楓の話である。原田の妻はALS(筋萎縮性側索硬化症)に苦しみ、首を吊って自ら命を絶った。しかし、それは自殺ではなく、原田の了承を得た上で名無しが実行した嘱託殺人であったことが、物語中盤で明かされる。

体の自由を失った妻は、生きる気力を失い、SNSに死にたいと書き込んでいた。原田にも殺してくれとすがり、自殺を試みたが失敗した。呻吟するその姿に堪えれなくなった夫は、意を決して彼女の首をしめるが、彼にはできなかった。

そこに現れたのが名無しだ。原田の妻が通う病院に務めていた名無しは、苦しむ原田に忍び寄り、ALS患者は死を望んでいると説く。彼らは本当は死にたいのに、不本意に生かされている。家族も疲れきっている。誰かが助けてあげなければならない。

ここで思い出すべきは、2019年に起きたALS患者嘱託殺人事件である。二人の医師がSNSを通じて知り合ったALS患者を、薬物投与により殺害。患者の女性は安楽死を望んでいた。一方で、被告の二人は以前から著作やブログなどで、ALS患者は死なせるべき、死んでほしい老人を捕まることなく葬れる、といった安楽死や優生思想に偏った考えを披瀝していた。そんな両者が、SNSという場で出会い起きてしまった出来事だった(被害者は医師の口座に百万以上を事前に振り込んでいる)(※2)。言うまでもなく、この顛末は『さがす』の筋書きと重なるところであり、映画の背景として指摘すべきものだ。

この事件の加害者医師らの考えに通じる、名無しの主張に共感するところがあったのか、原田は悩んだ末に妻の殺害を承諾してしまう。それが彼の、取り返しのつかない間違いだった。仕事を終えた名無しは、原田に対して平然と報酬を要求する。「有料コンテンツだから」と。

死にたくて苦しんでいる人を救おうという気持ちなど、彼には微塵もなかった。名無しの安楽死の必要性を訴える言葉は、原田をそそのかし、手駒とするための方便でしかなかった。金のため、そして歪んだ欲求を満たすため。彼を突き動かしていたのは、白石と同じ、著しく自己中心的で短絡的な考えに過ぎない。

原田に目をつけたのは、彼への同情からではなく、共犯者として利用し、あわよくば自らの罪をかぶせてしまおうと画策していたからだ。名無しに言われるがままに、原田はSNSで自殺志願者を探す仕事を請け負い、名無しがターゲットを殺して得た金銭の一部を受け取るようになる

その後の詳しい経緯は省略するが、一計を案じた原田は名無しを葬り、娘との日常を再開させる。ここで映画は、思わぬ方向に進む。名無しとの関係を断ち切ったにもかかわらず、原田は自殺志願者探しをまた始めるのだ。

ここに『さがす』の真の恐ろしさがある。妻を救いたいという思いを名無しに利用され、犯罪の片棒をかついでしまった原田は、名無しの悪行を引き継ごうとしてしまった。もちろん、二人の思いは同じではない。被害者の絶望など歯牙にもかけなかった名無しに対して、原田はALS患者の塗炭の苦しみを間近で体験した当事者である。少なくとも、後者には「救いたい」という意思があったと思う。さらにいえば、原田本人も堪え難い絶望に心を破壊されていた。

だから、彼が道を踏み外してしまったことは理解できなくもない。原田と同じ立場に置かれたとき、いま自分が正しいと思える行動を取れる自信もない。だが、映画の最後で娘の楓がはっきりと示したように、だからといって原田がしてしまったこと・これからしようとしていたことを受け入れることはできない。『さがす』の原田も名無しも、座間事件の白石も、ALS患者を殺した医師二人も、自分の身勝手な欲求を満たすため、社会的弱者を蹂躙し、尊厳を踏みにじったという点で同じだからだ。

現実では、そんな事件が後を絶たない。

2016年に起こった相模原やまゆり園事件。同施設の元職員・植松聖は、意思疎通が取れない重度の障害者は抹殺すべきという考えに取り憑かれていた。そして、やまゆり園の入所者19人を刺し殺す。困窮する社会が障害者に税金を割くのは無駄であり、彼らは不幸しか生まない。彼らを消し去ることで、世界平和が実現できる。そんなデタラメな妄言がもたらした悲劇だった。

裁判においてもこうしたストレートな優生思想と誇大妄想をとうとうと述べていた植松は、間違った正義感に突き動かされた異常者と見ることができる。だが──これは個人的な意見に過ぎないが、結局のところ、社会のため・世界平和のためという植松の言葉は、虚言ではないかと思う。もしくは、あくまでそうした主張は表層的な彼の装いに過ぎないと感じる。

彼は劣等感の塊であり、ドナルド・トランプといった権力者や著名人に深い憧憬を持っていた。裁判で「あなたのコンプレックスが今回の事件を引き起こしたと思うのですが」と問われ、「確かに。こんなことをしないで──中略──歌手とか、野球選手かとかになれたらよかったと思います。ただ、自分の中では(事件を起こすことが)一番有意義だと思いました」(※3)と答えた。

この発言からは、やまゆり園の障害者を殺すことが、自身のコンプレックスを克服するための、自己実現の手段だったことが推察される。一角の人物として社会に認められるために、彼の価値観においてトランプといった権力者の対極にいる障害者の抹殺という最悪の方法を選んでしまった。とどのつまり、自分勝手な欲望と成就と自己実現のために、社会的弱者を踏み台にしたのである。

殺人犯ではないが、生産性という偏った基準でLGBTを差別した杉田水脈も、ホームレスは社会から消されるべきと言い放ったメンタリストのDaiGoも、考え方としては近いものを持っている。そういった人間たちが発する、社会的弱者への冷淡でおぞましい空気を『さがす』は描き、はっきりとNOを突きつけた。そんな映画だったのではないかと思っている。

<参考文献>
※1 小野一光『冷酷 座間9人殺害事件』幻冬舎、2021年
※2 池田清彦『「現代優生学」の脅威』集英社、2021年
※3 神奈川新聞取材班『やまゆり園事件』幻冬舎、2020年

メンタリストさんへおすすめしたい映画3選

とあるメンタリストさんが、ホームレスや生活保護を受けている方に対して、人権侵害といえる発言をし、問題になっています。

 

メンタリストさん曰く、大して税金も収めていない私のような低所得の庶民が、たっぷり税金を払って福祉に貢献している自分のような上流国民を、今回のことで非難する筋合いはないのだそうです。

 

それはおかしいと思います。今回の問題のキーワードである「差別発言」を「ウンコ」に置き換えてみるとわかりやすい。

 

メンタリストが、多くの人の前でウンコを撒き散らしていた。
それを見た大多数の人は、彼を叱った。
叱られた彼は、辛口のウンコだと事前に断ったのに、真に受ける人が多くて困る、と言い訳した。

 

不特定多数の人に向けて、汚物を投げつけてきた大人を非難するのは、当たり前だと思います。「そんな汚いものを投げつけてくるな!」と、誰しも怒る権利があります。

 

だから、文句を垂れます。

 

メンタリストさんは、この動画は超辛口だから真に受けないで、みたいなことを言っていました。“辛口”というのは、辛口コメンテーターとか、そういう使い方をされる言葉ですよね。毒舌とほぼ同義だと思いますが、要は「辛辣な言葉を使って、対象を厳しく評価すること」だと思います。

 

で、なぜ辛口の内容“だから”、真に受けてはいけないのでしょう? 別に辛口だろうが甘口だろうが、何かを言葉で断じている以上、それはあなたが誰かに投げかけたい意見であるはずです。それを「真に受けないで」というのは、全く以て意味がわからない。

 

また彼は、個人的な見解を述べただけで、視聴者を煽動するものではない、という旨の発言もしています。これはつまり、彼の配信を観て「ホームレスなんかいない方が良いし、生活保護に税金を使ってほしくない」という主張をするようになったり、そういった価値観を持つようになったりする人がいても、「自分のせいではない」と言っているのと同じように思えます。勝手に同調したやつが悪い、と。

 

問題となった映像を観れば、彼はホームレスを排除した社会を望んでいると、多くの人が認識するでしょう。「ホームレスって、いない方が良くない?」と同意を求めてきているのですから。つまり、彼が考える理想的な社会のあり方を提示しているわけです。たとえ煽動する意図がなかったとしても、発言者がインフルエンサーと呼ばれるポジションの人物であることを踏まえれば、その発言が及ぼす影響には責任を持つべき。その責任の所在を「個人の感想」という言い訳であやふやにし、あまつさえ「勝手に同調した人」に押し付けているのは、姑息だという他ない。

 

加えて卑劣なのが、釈明動画における「家族とホームレスのどちらかしか救えないのなら、家族をとるでしょ? だから、命には優劣がある」という趣旨の発言。「家族とホームレスのどちらかしか助けられない」という、非常に現実味がなく、「家族を優先する」と答えざるを得ない設定の問題を投げかけ、こちらが反論できない状態にしおいて、「命には優劣がある」という自分の主張を強引に成り立たせている。そのこと(家族とホームレスのどちらが大事なのか)と、「社会がホームレスを救済することの是非」は、全然関係ないのにもかかわらず、です。

 

私は福祉の専門家でもないし、ホームレスや生活困窮者の実情に明るいわけでもなく、そういった境遇の方々を支援しているわけでもない。だから、偉そうなことは言えません。過去に優生学的な思想を少しも持ったことがないといったら嘘になるし、自分の中に差別的な考えがないという自信はありません。

 

近くにホームレスの方がいたら、臭いが気になることだってありますよ。しかし、だからといって、彼らを社会から抹殺せよという考えが、どれだけ下劣なのかはわかります。別に良い子ぶってるとか正義面をしているわけではなく、収めた税金がそういった方々を助けることに使われているのなら、本望です。少なくとも、オリンピックに使われるよりは数億倍有意義なのは間違いない。

 

メンタリストさんがこうした差別発言を公然と撒き散らした根本的な原因は、彼の思想や倫理観の問題だと思いますが、同時に“辛口”を履き違えているのではないか、とも感じました。

 

例えば「きみの文章はメリハリがなくて、つまらない」みたいな、問題の核心を突いており、建設的な批評だったら、それは“辛口”で良いと思うんです。しかし、今回メンタリストさんが“辛口”として発信した言葉は、偏見に満ちた汚い願望にすぎず、加えて社会的弱者に塗炭の苦しみを与えうる悪質な"口撃”でしかありません。

 

勝手な推測ですが、彼の中にはたぶん、「みんなが心の中で本当に思っていることを、堂々と言ってやる」「普通の人なら、周りの目が気になって吐き出せない本音を、代弁してやる」「建前や社会的圧力に屈しない俺、かっこよくない?」みたいな考えがあったのではないでしょうか。そうだとしたら、最高にダサい。

 

お前の本音を勝手にみんなの本音に置き換えるとなと思うし、そういった言葉の暴力を平気で振るう態度は、ただの未熟なガキンチョそのもの。たとえそういった幼稚な考えを抱いてしまったら、それを言葉にして吐き出す前に、はたして本当にそうだろうか?、この言葉を聞いて傷つく人はいないのだろうか?と、自制するのが大人のあるべき態度だと思います。

 

なお、釈明動画においてメンタリストさんは、ホームレスを救済する社会制度自体を否定するつもりはない、と話ています。その理由は、「生活に困窮した人達は、放っておくと犯罪に走りがちだから」だそうです。そう明言しています。つまり「犯罪予備軍であるホームレスが、我々上流層の生活を脅かさないために、税金を払ってやっている」、彼はそう言っているのではないでしょうか。

 

端的に言って、偏見が過ぎると思います。結局、彼の価値観は自分の損得しか基準がない。そう感じました。

 

そんなメンタリストさんに、おすすめしたい映画3本をご紹介します。ご本人がこの記事を見ることは永々にないでしょうが、ぜひご鑑賞ください。

 

トワイライトゾーン/超次元の体験 第1話「TIME OUT」
…超レイシストな白人男性が、ナチスから追い回されたり、KKKに火あぶりされそうになったり、ベトナムで米兵に殺されそうになったりする話です。邦題「偏見の恐怖」。

②ミディアン
…人間が自分達とは姿形が異なる闇の種族を、「不潔で汚らわしい連中だから」迫害しようとする話です。

ホテル・ルワンダ
…多数派部族がラジオでがんがんプロパガンダを流し、煽動して、少数派を大虐殺する話です。

 

13日の夜、メンタリストさんは謝罪動画を配信しています。ホームレスについて知識がない中、暴言を吐いてしまったことについては陳謝する。生活困窮者の支援をしている専門家を通じて、実態を勉強していき、そこでの体験を今後発信していくそうです。また、謝罪動画で得た広告収益等は、全額寄付されるとのこと。

→こちらの動画の内容が不誠実だったとして、再度謝罪しています。

『ゴジラVSコング』

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【ネタバレしています。未見の方は今すぐシャットダウン!】

 

過去のゴジラ・シリーズ全作品のポスターギャラリーを眺めて、『ゴジラVSコング』に一番近いのはどれだろう、と考えてみる。いろいろ考えた結果、それは『ゴジラ対ヘドラ』だと思う。というのも、劇中に出てくる人間達が、特にドラマらしいドラマを織りなすことなく、映画の外にいる我々観客と同じように、怪獣バトルの行く末を見守っているという点で、共通しているからです。

 

ゴジラVSコング』は、その点──人間ドラマ不在の怪獣映画という点を極め、「この映画の主役は100%ゴジラとコングだ!」と全く躊躇なく決め込んだ映画でした。本当に笑っちゃうくらい、本作の登場人物は書き割り然としています。いや、もちろん彼らには意思があって、ちゃんとそれぞれの目的に向かって行動していますよ。ただ、それらアクションは全部、ゴジラとコング、もしくはゴジラ&コングと(本作最大のサプライズ)メカゴジラの戦いをセッティングするためのものであり、副菜に過ぎません。そして、本作で最も葛藤を抱え、それを乗り越えるべく行動し、“成長”するのはコングなのです。つまり、この映画の主役はコングであります。邦題がもし『コングの大冒険 ゴジラと出会って危機一髪!』であっても、何の違和感もありません。

 

ぶっちゃけ、人間たちの葛藤とか成長なんてものは、この映画においてどうでも良いのです。それはおそらく、製作者たちも同じはず。その証左となるのが、小栗 旬さん演じる芹沢 蓮の扱い。彼は何を隠そう、前作『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』で自らの命を犠牲にし、核爆弾による闘魂注入で虫の息のゴジラを大復活させた芹沢猪四郎博士のご子息であります。そんなゴジラを信望していた熱烈研究者の息子さんが本作で何になっているかというと、ゴジラ抹殺用スーパー・ロボットであるメカゴジラパイロット! つまり、命を賭してゴジラを助けた人間の息子が、ゴジラ狩りをしているわけですよ。

 

ドラマがどばどば湧き出そうな設定じゃないですか。「お前のお父さんは自らを犠牲にしてゴジラを救ったのに…なぜ!?」みたいな台詞を吐く、故芹沢博士の後継者とかが出てきて、一悶着ありそうじゃないですか。ところがどっこい! 『ゴジラVSコング』はどうなっているかというと、この設定をガン無視しています。彼がメカゴジラパイロットになった経緯などは一切語られず、あまつさえ蓮さんは暴走したメカゴジラのビリビリ電撃攻撃で、非常にあっさりとお父さんの元へ旅立ちます(チーン)。

 

つまり、この映画の作り手たちは、意図的に重苦しいドラマを排除しているわけです。映画秘宝2021年6月号に掲載されている小栗さんのインタビューを読むと、当初の台本では「すべてのキャラクターにものすごく分厚いバックグラウンドが描かれていた」そうで、しかも一度撮影が終った後、大幅な内容の変更があり、追加撮影も行われたそうな。その結果『ゴジラVSコング』は、ギリギリまで人間パートを削ぎ落し、怪獣バトルの純度を最大限高めたとんでもない一作となりました。たぶん、人間パートごっそりカットしても、何とか成り立つんじゃないかな(さすがにそれは無理か…)。

 

【念のための再警告。この先超絶ネタバレします!】

 

内容について、ここがすげー!とか、ここは爆笑した!とか、言いたことは量産されていたスカルクローラーなみにあるのですが、それよりも「今後が楽しみ」ということを書いておきたい。

 

映画は結局、コングとのタイマンに勝ったゴジラメカゴジラに挑むものの、その圧倒的パワーの前に劣勢となります。そこへ、復活したコングが超かっこよく駆けつけ、二体の共闘によって遂にメカゴジラは粉砕されるのです。いやあ、コングが斧でメカゴジラをバラバラにするの、めちゃくちゃ良かったなあ。そしてゴジラは海に、コングは一族のルーツである地下空洞へ帰っていったのでした。

 

この終わり方の何が良いって、ゴジラもコングも生き残っていること。それはつまり、今後のモンスターヴァースで、二体がチームを組み、新たな敵怪獣と大激闘するという、垂涎すぎてヨダレべちょべちょな未来予想図が描けることを意味するのです! 先ほど触れたヘドラとか、ビオランテとか、ガイガンとか、デストロイアとか…とかとか、そういった強敵たちが現れて、ゴジラ&コングと大乱闘。そんなことが、この先起こるかもしれないわけです。あら素敵!

 

噂では『パシフィック・リム』もユニバースに合流!?なんて話もありますが…いずれにせよ、地球最強タッグ:ゴジラとコングの戦いが、きっとまた始まるはず。そんな期待を抱かせてくれる『ゴジラVSコング』は、この暗澹たる時代にあって、オリンピックよりも遥かに人類に元気と希望をもたらす存在なのでした。