悠田ドラゴのAll-Out ATTACK!!

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カテゴリーをご覧になれば、どんなブログかだいたい察しがつくかと思います。

『ミスト』のカーモディ婦人と"核共有"扇動者たち

フランク・ダラボンが監督した映画『ミスト』は、あまりに救いのない意地悪で絶望的な幕切れ故に、バッドエンドの代名詞のように語られることが多い。たしかに、本作が原作の小説に則した一抹の希望を抱かせる終わり方であったなら、ここまで語り種になる映画にはならなかったのかもしれない。

しかしながら、映画『ミスト』はその悲劇的結末がなければ凡作に過ぎないのかというと、全くそんなことはない。むしろこの映画の白眉は、原作でも丁寧に描かれていた、主要な舞台であるスーパーマーケットでの登場人物たちの心情的変化を見事に映像化して見せたという点にあると思う。

主人公の画家ドレイトンが息子とスーパーで買い物をしていると、街が正体不明の霧に覆われてしまう。その中には、異形の怪物が潜んでおり、他の客たちとともに、主人公はスーパーでの篭城を余儀なくされる。

怪現象に遭遇した人々は、不安に苛まれ、侵入してきた怪物の攻撃による犠牲者が増えるにつれ、抗し難い恐怖に飲まれていく。そうした集団心理を(図らずも)味方につけ、スーパーに留まる大半の人々の心を掌握したのが、カーモディ婦人だった。

彼女は敬虔なキリスト教徒であり、霧と怪物は神が人類に下した罰だとうそぶく。当然、カーモディの話を真に受ける人はほとんどいなかった。

ところが、霧がもたらした恐怖は、カーモディに対する人々のまなざしを一変させる。惨い死を次々と目の当たりにし、彼女の言う事がでたらめには思えなくなってくる。どんなに荒唐無稽な話であろうと、それを信じることで救われるような気がしてしまう。あるいは、他に頼るべきものがないと思ってしまう。

自身を神の使いだと信じきったカーモディと、彼女の大演説の虜になる大人たち。スーパーに集った人々は、もはや彼女を頂点とするカルトと化した。彼らは遂に、一線を超える。霧の秘密を知っていた──ただそれだけで罪を犯したわけではない若き軍人を「ユダ」とののしり、生け贄として外の怪物に差し出してしまうのだ。その狂気から逃れようとドレイトンを含むグループは脱出を図るが、カーモディらに囲まれてしまう。彼女が「子どもを差し出せ」と叫び、信者たちはナイフを手に襲いかかる……。

言うまでもなく、我々が『ミスト』の世界と同じ危機的状況に陥ることは考えにくい。ただ、それは「化け物だらけの霧に囲まれる」という特異なシチュエーションに限って言えばだ。『ミスト』の状況を抽象化し、「恐怖に囚われて扇動者の意のままになる」と考えれば、これはいくらでも現実に起こりえる。むしろ、いまこの日本で起こっていると言えるかもしれない。

プーチン大統領ウクライナ侵略という歴史的愚行の影響は、海で隔たれた日本にも及んでいる。外交や経済、そして心情的な面でだ。

いつか日本も、ウクライナのような状況になりかねない。他国から侵略されてもおかしくない。プーチンの狂気が、他の独裁者たちに活力を与えてしまったかもしれない。そういった不安や恐怖が、現実世界からSNSを中心とするネットの世界にまで蔓延している。

そこに投げられたのが、“核共有”という考え方だった。非核三原則の内、「持ち込ませない」の項目を破り、アメリカの核兵器を日本に配備する。それにより抑止力を高め、他国からの攻撃を防ぐ。簡略に言えば、そういう理屈だ。

この理論のシンプルさは、焦燥感に駆られ、何かにすがりたいと欲する弱った心に刺さりやすい。ウクライナから広がった不安や恐怖によって、“核共有”という考え方が受け入れられやすい空気が醸成されている。そんな気がしてならない。『ミスト』の老婆がとうとうと述べる荒唐無稽な終末論に、スーパーの人々が陶酔していく様が思い浮かぶ。

私は国際政治についても軍事についても全くの素人だが、一部の政治家や著名人が説く“核共有”は何か空虚で中身のないものに思えてならない。そもそも、日本に核を配備するという大転換を、国際社会にどう説明し、どう納得してもらうのか。そのための道筋は全く見えてこない。

あるいは、日本に核を置くと宣言すること自体、他国が日本を攻める口実になってしまうことはないのだろうか。自ら侵略される大義名分を与えてしまうことにならないのだろうか。そういった疑問は尽きない。

“核共有”を主張する人達の頭には、日本を守るためとか、大国に対抗するためとか、大層立派な言葉が躍っているように思う。ただ、軍事的な文脈における“核共有”の意義を主張する前に、まずやるべきは、「核を持ち、使う覚悟があるのか?」と国民に問うことではないのか。

あくまで抑止力として、アメリカの核を置くだけに過ぎないとしても、日本国民がその所持の責任から逃れられるわけではない。日本に核を置くということは、それを他国に対して打ち込む可能性を了承することに他ならないからだ。

核兵器を使う。この短い文の中に、無数の本ができ上がるほどの悲劇と恐怖が詰め込まれている。ほんの少し列挙してみたい。

核兵器を使うとは、とてつもない高温の火球によって多くの人間を蒸発させ、消し去ることである。

核兵器を使うとは、爆風によって内臓を破裂させるなど、人体を惨く破壊することである。

核兵器を使うとは、人の表皮を焼き、神経を剥き出しにさせ、感じ得る最悪の苦痛を与えることである。

核兵器を使うとは、放射線によって人々の細胞を破壊し、殺すことである。

核兵器を使うとは、救助活動にあたる人達をも、残留放射能によって破壊することである。

核兵器を使うとは、街を破壊し尽くすだけでなく、放射性物質をばらまき、生き物が住めない土地を作り出すことである。

核兵器を使うとは、市民の生活と人生を奪いさることである。

核兵器を使うとは、傲慢で愚かな為政者の手によって、無辜の人々を地獄に突き落とすことである。

核兵器を使うとは、バカの極みである。

“共有”という言葉に惑わされてはならない。それを自国に置く以上、誰かの頭上に落とす可能性があることを我々は覚悟しなくてはいけない。その覚悟が、あるのだろうか?

付言すれば、核の矛先は他国とは限らない。自国の領土に打ち込む可能性だってあるのだ。『未知への飛行』という冷戦時代を舞台にした映画がある。アメリカ空軍が誤ってモスクワを核攻撃してしまい、全面核戦争を回避するため、米大統領がニューヨークにも核を打ち込んで事態を収拾させるという、笑えない冗談のような物語である。ただ、核を抑止力として持つとは、このような事態──自分達の核で自国の民を焼き殺すという可能性も含んでいることは否定できないであろう。

核兵器による国家間のパワーゲーム。そんなくだらない駆け引きの代償を払わされるのは、政治家でも軍人でもなく、多くは無辜の市民だ。そのことを忘れて、“核共有”の議論など始められるわけがない。