悠田ドラゴのAll-Out ATTACK!!

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カテゴリーをご覧になれば、どんなブログかだいたい察しがつくかと思います。

映画『さがす』と冷たい殺人者たち

【注】以下文章は映画『さがす』を既に鑑賞している方に向けて書いたものです。

2017年10月。神奈川県座間市のアパートで、9名におよぶ男女の遺体(内8名は女性)が発見された。被害者の頭部や骨が、クーラーボックスとRVボックスに詰め込まれていた。犯行現場となった部屋の住人である白石隆浩は、殺人や死体損壊などの罪で起訴され、2021年1月に死刑が確定している。

彼はわずか数ヶ月の間(8月下旬〜10月下旬)に、たった一人で九人もの殺害・解体を完遂した。風呂場で遺体を切断し、頭部以外の肉はゴミとして捨てた。類を見ない犯罪であるのは言うまでもない。ミルウォーキーの食人鬼として知られるジェフリー・ダーマーですら、これほどのペースで殺した時期はなかったのだ。

白石が短期間に犯行を重ねることができたのは、SNSを使い、簡単に獲物を探すことができたからである。彼は「首吊り士」といった複数のTwitterアカウントを使い、自殺願望や人生に対する絶望を吐露しているユーザーに接触DMで自殺幇助を申し出るなど、狙いをつけた人物を自室に誘導し、その場で殺害した。

犯行のほとんどは、縄や腕で首を絞め、失神したところをレイプし、ロープで首を吊って息の根を止める、という手順を踏んでいる(中には屍姦された被害者もいる)。そして殺した相手の金銭を奪い、遺体を処理した。この男を凶行に駆り立てたもの。それについて本人は、「自分のお金が欲しい、性欲を満たすため九人を殺しました」と供述している(※1)。

片山慎三監督の映画『さがす』をご覧になった方であれば、同作に登場する殺人犯“名無し”こと山内照巳が、白石を投影したキャラクターであることに気づくだろう。映画にはモチーフになった事件がいくつかあると片山監督が述べているが、そのひとつが白石の事件であることに疑いの余地はない。

SNSで自殺願望を抱く女性を探し出し、殺して金銭を奪う(もしくは報酬として本人やその家族に金銭を要求する)。名無しの場合は、女性を犯すのではなく、遺体に白いソックスを履かせ、それを眺めて自慰するという形で、まるで儀式のように歪んだ性欲を満たしていた。映画では、解体した遺体を隠すクーラーボックスも再現されている。

『さがす』は、こうした名無しの凶行に巻き込まれた、父・原田智と娘・楓の話である。原田の妻はALS(筋萎縮性側索硬化症)に苦しみ、首を吊って自ら命を絶った。しかし、それは自殺ではなく、原田の了承を得た上で名無しが実行した嘱託殺人であったことが、物語中盤で明かされる。

体の自由を失った妻は、生きる気力を失い、SNSに死にたいと書き込んでいた。原田にも殺してくれとすがり、自殺を試みたが失敗した。呻吟するその姿に堪えれなくなった夫は、意を決して彼女の首をしめるが、彼にはできなかった。

そこに現れたのが名無しだ。原田の妻が通う病院に務めていた名無しは、苦しむ原田に忍び寄り、ALS患者は死を望んでいると説く。彼らは本当は死にたいのに、不本意に生かされている。家族も疲れきっている。誰かが助けてあげなければならない。

ここで思い出すべきは、2019年に起きたALS患者嘱託殺人事件である。二人の医師がSNSを通じて知り合ったALS患者を、薬物投与により殺害。患者の女性は安楽死を望んでいた。一方で、被告の二人は以前から著作やブログなどで、ALS患者は死なせるべき、死んでほしい老人を捕まることなく葬れる、といった安楽死や優生思想に偏った考えを披瀝していた。そんな両者が、SNSという場で出会い起きてしまった出来事だった(被害者は医師の口座に百万以上を事前に振り込んでいる)(※2)。言うまでもなく、この顛末は『さがす』の筋書きと重なるところであり、映画の背景として指摘すべきものだ。

この事件の加害者医師らの考えに通じる、名無しの主張に共感するところがあったのか、原田は悩んだ末に妻の殺害を承諾してしまう。それが彼の、取り返しのつかない間違いだった。仕事を終えた名無しは、原田に対して平然と報酬を要求する。「有料コンテンツだから」と。

死にたくて苦しんでいる人を救おうという気持ちなど、彼には微塵もなかった。名無しの安楽死の必要性を訴える言葉は、原田をそそのかし、手駒とするための方便でしかなかった。金のため、そして歪んだ欲求を満たすため。彼を突き動かしていたのは、白石と同じ、著しく自己中心的で短絡的な考えに過ぎない。

原田に目をつけたのは、彼への同情からではなく、共犯者として利用し、あわよくば自らの罪をかぶせてしまおうと画策していたからだ。名無しに言われるがままに、原田はSNSで自殺志願者を探す仕事を請け負い、名無しがターゲットを殺して得た金銭の一部を受け取るようになる

その後の詳しい経緯は省略するが、一計を案じた原田は名無しを葬り、娘との日常を再開させる。ここで映画は、思わぬ方向に進む。名無しとの関係を断ち切ったにもかかわらず、原田は自殺志願者探しをまた始めるのだ。

ここに『さがす』の真の恐ろしさがある。妻を救いたいという思いを名無しに利用され、犯罪の片棒をかついでしまった原田は、名無しの悪行を引き継ごうとしてしまった。もちろん、二人の思いは同じではない。被害者の絶望など歯牙にもかけなかった名無しに対して、原田はALS患者の塗炭の苦しみを間近で体験した当事者である。少なくとも、後者には「救いたい」という意思があったと思う。さらにいえば、原田本人も堪え難い絶望に心を破壊されていた。

だから、彼が道を踏み外してしまったことは理解できなくもない。原田と同じ立場に置かれたとき、いま自分が正しいと思える行動を取れる自信もない。だが、映画の最後で娘の楓がはっきりと示したように、だからといって原田がしてしまったこと・これからしようとしていたことを受け入れることはできない。『さがす』の原田も名無しも、座間事件の白石も、ALS患者を殺した医師二人も、自分の身勝手な欲求を満たすため、社会的弱者を蹂躙し、尊厳を踏みにじったという点で同じだからだ。

現実では、そんな事件が後を絶たない。

2016年に起こった相模原やまゆり園事件。同施設の元職員・植松聖は、意思疎通が取れない重度の障害者は抹殺すべきという考えに取り憑かれていた。そして、やまゆり園の入所者19人を刺し殺す。困窮する社会が障害者に税金を割くのは無駄であり、彼らは不幸しか生まない。彼らを消し去ることで、世界平和が実現できる。そんなデタラメな妄言がもたらした悲劇だった。

裁判においてもこうしたストレートな優生思想と誇大妄想をとうとうと述べていた植松は、間違った正義感に突き動かされた異常者と見ることができる。だが──これは個人的な意見に過ぎないが、結局のところ、社会のため・世界平和のためという植松の言葉は、虚言ではないかと思う。もしくは、あくまでそうした主張は表層的な彼の装いに過ぎないと感じる。

彼は劣等感の塊であり、ドナルド・トランプといった権力者や著名人に深い憧憬を持っていた。裁判で「あなたのコンプレックスが今回の事件を引き起こしたと思うのですが」と問われ、「確かに。こんなことをしないで──中略──歌手とか、野球選手かとかになれたらよかったと思います。ただ、自分の中では(事件を起こすことが)一番有意義だと思いました」(※3)と答えた。

この発言からは、やまゆり園の障害者を殺すことが、自身のコンプレックスを克服するための、自己実現の手段だったことが推察される。一角の人物として社会に認められるために、彼の価値観においてトランプといった権力者の対極にいる障害者の抹殺という最悪の方法を選んでしまった。とどのつまり、自分勝手な欲望と成就と自己実現のために、社会的弱者を踏み台にしたのである。

殺人犯ではないが、生産性という偏った基準でLGBTを差別した杉田水脈も、ホームレスは社会から消されるべきと言い放ったメンタリストのDaiGoも、考え方としては近いものを持っている。そういった人間たちが発する、社会的弱者への冷淡でおぞましい空気を『さがす』は描き、はっきりとNOを突きつけた。そんな映画だったのではないかと思っている。

<参考文献>
※1 小野一光『冷酷 座間9人殺害事件』幻冬舎、2021年
※2 池田清彦『「現代優生学」の脅威』集英社、2021年
※3 神奈川新聞取材班『やまゆり園事件』幻冬舎、2020年