悠田ドラゴのAll-Out ATTACK!!

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カテゴリーをご覧になれば、どんなブログかだいたい察しがつくかと思います。

愛しのトラウマ映画列伝:ヴァーホーヴェンとスピルバーグ

 

トータル・リコール』と『スターシップ・トゥルーパーズ

見渡す限り岩しか見当たらない荒涼とした場所に、宇宙服をまとった2人の男女が立っている。
そこは地球ではない、どこかの星の赤い地表だった。
2人はおもむろに手を握り、見つめ合い、静かに微笑んだ。
そして、また歩を進め出したのもつかの間、男の方が足を踏み外し、崖を転がり落ちていく。
彼は顔面から岩に衝突し、ヘルメットが割れ、外気に晒されてしまった。
気圧の急激な変化により、男の顔はみるみる変形し、いまにも目玉が飛び出しそうになっている。
呻吟する声が、何もない大地に響き渡る…。


何歳の時かは判然としないが、おそらく小学生の頃だったと思う。
ある夜、テレビを点けていたら、このような出だしの映画に遭遇した。
そして、苦悶する男の目玉が飛び出し始めた時点で、私は恐怖のあまり、すかさずテレビを消した。
今のはいったい何だ。自分はいったい、何を見てしまったんだ…。


それからというもの、しばらくの間、この映像を思い出すのも嫌になり、あのときテレビを点けていたことを後悔した。
それからしばらく経ち、おそらく高校生か大学生の頃、ある1本の映画を見た。


トータル・リコール
アーノルド・シュワルツェネッガー主演、ポール・ヴァーホーヴェン監督という、とてつもない個性を持った2人が生み出したアクション超大作である。
そのオープニングに、あの悪夢のような映像が現れた。
この時はじめて、あの悪夢が『トータル・リコール』という映画の一部であることを知った。


無論、映画は最高だった。
火星での目玉飛び出し描写を始めとする、天才アーティスト、ロブ・ボッティンが手がけた特殊メイクによる驚異的なショック映像の数々に、私はもはや拒否反応を示すことなく、むしろその虜になっていった。
それからというもの、ロブが参加した『遊星からの物体X』や『ハウリング』など、造形アーティストが生み出す狂気の映画を次々と漁るようになる。
トータル・リコール』で植え付けられた恐怖の種は、時を経て、奇怪な世界を求める底なしの好奇心となって開花したのだった。


同じような体験──当初は拒絶していた映画から、後になって思いもよらない影響を受けるようになる体験は、他にもある。
たとえば、同じくヴァーホーヴェンがメガホンをとった、昆虫型エイリアンとの死闘を描くSFアクションスターシップ・トゥルーパーズである。

記憶では中学くらいの時にテレビで観たつもりだったが、調べてみると地上波初放送は2004年なので、高校1年生の時だった。


この作品の何が嫌だったかといえば、終盤ザンダーという兵士が敵の司令塔であるブレイン・バグに惨殺される場面だ。
彼は頭に管のようなものをブッ刺され、脳髄を吸引され絶命する。まるでタピオカをストローでチューチューするかのように、自分の脳みそを虫に吸われる。こんな厭な死に方があるだろうか。
しかもヴァーホーヴェンは、脳髄がブレイン・バグの口に向かって半透明の管の中を移動していく様や、吸引されるに従って目玉が脳天側に引っぱられ白目をむくところなど、彼の死に至る過程を必要以上の丁寧さで見せてくる。はっきり言って鬼畜である。
劇中の至るところで人間の身体がすっ飛ぶ残酷描写てんこ盛りの『スターシップ・トゥルーパーズ』だが、中でもザンダーの死に様が嫌すぎて、本作はしばらくの間「見なきゃよかった」枠に収まることとなった。


ただ、『スターシップ・トゥルーパーズ』を当初拒絶した理由はそれだけではない。本作は、主人公たち軍隊の勇ましい姿を映し出し、彼らのような兵士をもっと必要としている、と呼びかけ、「THEY'LL KEEP FIGHTING AND THEY'LL WIN」という力強いメッセージとともに幕を閉じる。
この軍国主義を強く打ち出したような終わり方を、当時私は極めて不快に感じた。
露骨に「戦争しようぜ!」と投げかけるようなフィナーレに、怒りすら覚えたほどだった。


だが、本作はもともと全体主義国家のプロパガンダ映画のパロディを意図して作られている。
つまり、表層的に捉えれば浅はかな戦意高揚映画として見えるが(それでもアクション映画として非常に優れいている、という点は一旦置いておく)、パロディとしての構造を含めて捉え直すと、『スターシップ・トゥルーパーズ』はファシズムへの痛烈な皮肉になっているのである。
ヴァーホーヴェンは、「こんなバカな国家のために戦って死にたいのか? そんな世界に生きたいのか?」と観客に問うたのだ。
その本質に気がつかされたとき、自分の不明を恥じるとともに、視点を変えることで映画の姿がまるで違って見えることを教わり、映画の多面性に触れたような気がして何だか嬉しかった。

 

ジョーズ』と『プライベート・ライアン

人が圧倒的な暴力を前に、心が折れ、我を失い、屈していく。映画を見ていると、こうした場面に遭遇することがままある。
たとえば、『ロボコップ』で主人公マーフィが殉職する(直前の)シーンがそれに当たる。武装したワルどもに囲まれ、絶体絶命の状況に追い込まれてもなお毅然とした態度を貫くマーフィ。そんな彼の右手を、敵のボスであるクラレンスが銃で吹き飛ばしてしまう。手首から先がなくなった右腕を呆然と見つめ、マーフィーは力なくトボトボと歩き出す。それまで彼が放っていた威厳や尊厳といったものが雲散霧消し、抵抗する気力すらなく、ただただ悪党の放つ弾丸を浴びせられ、ぼろ切れのように死んでいく。
この場面は、何度みても戦慄してしまう。それは、マーフィの強い意思が悪意の塊によって砕かれたことが、あまりにも鮮明に描かれているからだ。
映画において、人間が折れる場面というのは、私にとって大きな恐怖と苦痛を伴う瞬間でもある。


こういった描写が怖いとはじめて明確に感じたのは、おそらくジョーズだろう。
物語のクライマックス、漁師のクイントが船に乗り上げてきた巨大ザメに足から飲み込まれていくあの有名な場面。
生きたままサメに喰われるという残酷さが恐ろしいのは言わずもがなだが、それ以上にこの場面は、主人公のブロディやフーパー以上に力強くパワーに溢れたクイントという男の生命が、いとも簡単に終わってしまったその唐突な死があまりにも怖い。
サメにとって最も脅威であったはずの人間が、その巨大な暴力に破れ、身体を噛み砕かれる。
あれほど冷静に戦っていたクイントは今や完全に取り乱し、できることと言えばただジタバタして断末魔の叫びをあげることくらい。
結局、彼はなす術もなく、自身の血で赤く染まった海へと引きずり込まれてしまった。
これが、私にとってはじめて体験した、スティーブン・スピルバーグ映画というトラウマである。


彼の映画では、他にも『宇宙戦争』や『ジュラシック・パーク』など、何度か恐ろしい体験をしている。
その中でも、『ジョーズ』と並んで強烈なショックを受けたのが、プライベート・ライアンだった。

第二次世界大戦西部戦線における阿鼻叫喚の戦場を克明に再現し、戦争映画の歴史を変え、分水嶺となった傑作だ。
冒頭のノルマンディ上陸作戦の残虐描写があまりにも有名で、言うまでもなくそのシークエンスにはえも言われぬ衝撃を受けた。


ただ、この映画が私にとってのトラウマになった要因は、終盤の市街地決戦での一幕にある。
主要登場人物のひとりであるメリッシュが建物内でドイツ兵と格闘した末、胸にナイフを押し込まれ命を落とす場面。
ゆっくり、ゆっくりとナイフがメリッシュの胸部に入っていき、やがて急所に達するまでの数秒間は、消しゴムでこすって字が薄くなっていくかのように、人命が少しずつ静かに削られていく様があまりにも生々しく、非常にショッキングだった。
それだけでなく、この場面にはもうひとつのトラウマ要因がある。
主人公たちの部隊で最も若く、闘争心に欠けた男アパム。彼はメリッシュが窮地に陥っていることを悟りながら、そして十分な武器を手にしているにもかかわらず、戦闘に参加することを逡巡していた。
彼がめそめそせず、とっととメリッシュの元へ駆けつけドイツ兵を撃ち殺していれば、彼は助かっただろう。しかし、アパムにはそれができなかった。彼はただ、怯えていただけで、メイリッシュを見殺しにしてしまったばかりか、仲間の命を奪ったドイツ兵が現れると降伏のポーズを示し、そのまま行かせてしまう。


客観的に見れば、彼は臆病者、卑怯者といった誹りを免れられないであろう。
しかし、私にはどうしてもアパムを責めることはできない。もし自分が彼と同じ立場にあったなら、きっと同じように物陰に隠れることしかできなかっただろうと思うから。
恐怖のあまりすくみ上り、失禁すらしてしまうかもしれない。
あれほどの極限状態に置かれたとき、自分の勇気や意思など、いとも簡単に挫けてしまう。
そう思うと、この場面は映画を見てから時間が経てば経つほど、より恐ろしくなっていった。
戦争という冷徹な暴力を前に、何もできず仲間を見殺してにしてしまうという体験を、アパムという人物を通して私は経験してしまったのだと思う。
その恐怖は、映画を見てから20年ほど経った今もなお、心の深いところに巣食っている。