悠田ドラゴのAll-Out ATTACK!!

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エメゴジ讃歌[後編]ここがダメだよトライスター版ゴジラ

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トライスター版『ゴジラ
(1998年)、通称エメゴジへの不当な評価に対抗するべく同作の美点について考えてみた【前編】に続き、後編では、逆にエメゴジの「ここは残念だった」というポイントを指摘してみたいと思います。というのも、作品のいいところだけ見て「この映画はなんて素晴らしいんだ!」というのは、自国にとって都合の悪い事実には盲目的になったり、歴史改変したりするエセ愛国者のようで気持ちが悪いからです。


エメゴジをどれだけ擁護しようとも、「ここはどうなの…?」と思わず眉をひそめてしまう点があるのは否めません。特に問題だと思うのは終盤の展開です。つまり、200頭を超える腹ぺこベビーゴジラが跋扈するマジソン・スクエア・ガーデンからの脱出劇と、その後の主人公たちがタクシーに乗って親ゴジラから逃げ回るシークエンスに、トライスター版『ゴジラ』の瑕疵が集約していると考えています。


これらの場面はありていに言えば、『ジュラシック・パーク』の二番煎じでしかありません。しかも、マジソン・スクエア・ガーデンの脱出劇では、フィリップの部下が餌食となるくだりが4人分(似たような襲われ方で)繰り返されるため、かなり冗長に感じます。さらにいうと、ニック、フィリップ、オードリー(ニックの元恋人)、アニマル(オードリーの仕事仲間)という4人がまんまと生き残り、フィリップの部下全員がきっちり残らず餌食となるというのは、あまりに安直すぎやしないかい?とも思います。ベビーゴジラの食人シーン(とはいっても、直接的なゴア描写はなし)をやりたいがために登場させられたとしか思えない、4人が不憫でならない…合掌。


ちなみに、このベビーゴジラという存在もエメゴジ否定派の的にされがちですが、ゴジラが繁殖するという設定自体はことさらに批判する理由はないと思います。もし、この無性生殖設定を否定するのであれば、『シン・ゴジラ』(2016年)の第5形態だってダメじゃないか、という話にもなりますし…。


また、前編で述べた「ゴジラ=犠牲者」という話にもつながりますが、生き物としての営みを全うしたかっただけのゴジラが、核実験の影響で生まれた新種であるにもかかわらず、その核兵器を作った人間の都合で排除されてしまうという悲劇性が、ベビーゴジラの存在によってより際立つとも思います。ただ子育てしたかっただけなのに、親子共々殺されてしまった…と。なんだかグレムリンみたいに小生意気で愛らしいベビーたちが焼き殺されてしまうのは、なかなか辛いものがあるじゃないですか…ねえ。


それはともなく、本題に戻りましょう。ゴジラがタクシーを追っかけ回すくだりに至っては、『インデペンデンス・デイ:リサージェンス』でも見られた“事態の矮小化”に他ならず、作品そのものやゴジラ自身の存在のスケール感を大きく減じてしまっていると思います。また、振り返ってみると、マジソン・スクエア・ガーデンからこのタクシー逃走劇にいたるまで、ニックたちはずっと逃げているだけなんですよね。これではドラマ性が弛緩してしまうし、どうしても長ったらしく感じざるを得ない。エメゴジの上映時間は、日米両方のゴジラ・シリーズの全作品中、最も長い2時間18分です。本作のストーリーを語る上で、これほどの尺が必要だったとは思えません。であれば、終盤の展開をもっとタイトにして、2時間くらいに収めるのが妥当だったような気がします。


たとえば、ベビーゴジラをああいった獰猛なキャラクターで人を襲ったりしない、『ゴジラVSメカゴジラ』(1993年)のベビーのように大人しくて愛らしい幼体として描いていたら、どうだったでしょうか。ニックたちは恐らく、抹殺するのをためらったのではないかと思います。しかし、いずれすべての幼体が長じて、親と同等の巨体を手にすれば、人類にとって驚異となるのは言うまでもありません。となれば、ニックの意思がどうあれ、映画と同様、軍によって殲滅されるという筋書きは変えようがないでしょう。しかし、無垢な幼い生命を虐殺したという人間側の罪悪感は、映画で描かれているより何倍も膨張したはずですし、ニックたちの心情的な葛藤も生まれる。


加えて、映画の終わり方についても思い切って考えてみると、やはり親ゴジラがタクシーを追いかけ回すくだりは、なかった方が良いと思います。そうではなく、子ども達の無惨な姿を目の当たりにしたゴジラが、全く気力をなくしてしまい、その場で抜け殻のように動かなくなるという展開はどうでしょうか。そこへベビーゴジラたちを抹殺したF18戦闘機が再び飛来し、赤ん坊の亡骸を前に呆然とするゴジラへ向かって容赦なくミサイルを打ち込むのです。もはや生きる意思をなくしたゴジラは抵抗することもなく、断末魔をあげて事切れる。その姿を見つめるニックのえも言われぬ表情をとらえて、映画は終わる…。


なんとも後味の悪いエンディングですが、こういった感じで締めくくった方が、本来エメゴジが内包していたゴジラ=犠牲者という要素を、より強調する形で幕引きができたのではないでしょうか。もちろん、これは素人の妄想に過ぎないので、作劇のプロからすればナンセンスな物語構成なのかもしれませんが…。エメリッヒとデブリンもそんなことはもちろん検討済みだった、ということも十分にあり得ます。


ちなみに、今回のゴジラは魚を摂取するという特徴があります。映画の中で、ゴジラがマグロを漁っていたのは「子どもに食べさせるため」だと説明されていましたが、日本のゴジラのように放射能がエネルギー源ではない以上、当然親も食物から栄養を得て生きているのでしょう。そうなると、必然的に排泄物が生じます。


何が言いたいかというと、せっかく生物としての側面をエメゴジでは強調していたのだから、思い切ってゴジラの排泄物を描くのもありだったんじゃないか、ということです。たとえば、『ガメラ 大怪獣空中決戦』には主人公がギャオスのペレットに手を突っ込んで、調査する場面があるじゃないですか。ペレットは口から戻す未消化物だそうで、ウ○コとは違いますが、同じようにゴジラの排泄物をリサーチするシーンがあったら、それはそれで非常に興味深い場面になったのではないかと思います。


もちろん、「ウ○コをするゴジラなんて、けしからん!」とファンから猛烈な怒りを買うことは火を見るよりも明らかですが、どうせ炎上するのなら、とことん怒らせるのも良かったんじゃないでしょうか。「史上はじめてゴジラのウ○コを描いた映画」として、長らく人々の記憶に残ることもできたでしょう──すみません、話しが大きく逸れました。


ともかく、結論をまとめますと、マジソン・スクエア・ガーデン以降の無駄なシーンを省いてもっとタイトにまとめていれば、エメゴジはもっといい出来になったはずだ!です。文章が進むにしたがって、独りよがりの妄想と汚い話に偏ってしまったことを、最後にお詫び申し上げます。