悠田ドラゴのAll-Out ATTACK!!

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カテゴリーをご覧になれば、どんなブログかだいたい察しがつくかと思います。

『シン・ウルトラマン』で陥った思考地獄

【注】ネタバレありです。


5月13日、レイトショーで『シン・ウルトラマン』を観ました。


劇場はほぼ満員で、男性が多い印象でしたが、女性もちらほら。おじさんだらけという印象はなく、若い人もけっこういたと記憶しています。


これほど大入りの劇場で映画を観るのは何だか久々で、しかも作品が待望の『シン・ウルトラマン』ということで、いつになく高揚していました。緊張すらしていた気がする。


上映時間、113分。


本編が終わり、エンドロールが流れている間、頭に浮かんで来たのは「変な映画」という表現でした。


変な映画、いっぱいあります。大好きな変な映画もあれば、良く思わない変な映画もある。はたして、『シン・ウルトラマン』はどっちの「変な映画」になるのか。今も自分の中では思考がグルグルと無限地獄にはまってしまい、答えを出しかねています。


心躍るシーンは間違いなくあったし、できるだけたくさんの人が劇場に足を運んで、『シン・ゴジラ』並のヒットになればと応援したい気持ちは大いにある。

こんな映像を完成させた作り手の皆さんには、最大級の敬意を抱いています。


ただ、『シン・ウルトラマン』を観てもの凄く感情を揺さぶられることは、残念ながらありませんでした。ストーリーに心地よく乗ることができたのかと言えば、僕はできませんでした。だから、「上映中ずっと興奮しっぱなしだった!」とか「最後の戦いでは、思わず前のめりで応援してしまった」といった感想を目にすると、とても羨ましい。皮肉ではなく、本当にそう思います。


なぜ自分は、そういった体験をすることができなかったのか?


ウルトラマン愛が足りないから。ウルトラマンというキャラクターや作品に対する理解が足りないから。そう言われれば、そうなのかもしれない。


しかし、それだけではない部分もあるんじゃないかと、もやもや考えてみました。



①いまいちつかめないリアリティ・ライン


本作の世界観を緩めにしたかったので、政府系組織内の設定等も『シン・ゴジラ』に比べてかなりフィクション寄りにしてます。──中略──現実的な印象を観客が最低限持てば良いような世界観を目指しました。


これは書籍『シン・ウルトラマン デザインワークス』の中に収められている、本作の企画・脚本・編集等を担当した庵野秀明氏の手記の一文です。かなりフィクション寄りにしている、つまり『シン・ウルトラマン』は我々が生きている現実とはだいぶ異なる世界の話、と言うことができるでしょう。


リアリティがない世界観でウルトラマンを描く。それは全く問題ありません。実際、多くのウルトラ・シリーズの作品は、我々の社会とはかけ離れた社会を描いており、我々はそれを楽しんできました。(怪獣がいることの非日常性ということではなく、怪獣が現れる人間社会のリアリティについて話しています)


ただ、『シン・ウルトラマン』は現実社会に則した世界の皮をかぶりながら、その中身がかなりフィクショナルである点が、実は厄介なのではないかと感じています。観客がどういった世界観の話として観ていけばよいのか、物語の早い段階で判断しにくいと思うからです。


これは個々の没入の仕方や先入観の問題に過ぎないのかもしれませんが、私自身は、『シン・ウルトラマン』をどういうスタンスで観るべきなのかわからず、物語がかなり進行するまで宙ぶらりんな感じでした。


先の庵野氏の言葉通り、本作はフィクション寄りの世界観だと認識した上で観ないと、引っかかる部分が多く、物語に上手く乗れないと思います。ところが『シン・ウルトラマン』は、一定のリアリティさを確保しようとする要素が、物語に入り込むのを阻害していると感じます。


例えば、禍特対のメンバーはしっかりスーツを着用し、パッと見のルックは一般的な組織の人間です。初代マンの科学特捜隊のように、「これは現実世界には存在しない、特別な集団だ」と直感的に判断できるコスチュームは身につけていません。また、属国がどうだとかポリティカルな会話も度々登場しますが、これも中途半端にリアリティさを醸し出し、フィクションの世界に全力で飛び込ませてくれません。


端的に言えば、リアリティを感じさせる部分と、物語のフィクション性の高さに乖離があって、食い合わせが悪いと感じるのです。


あんだけオープニングから怪獣が出てくるんだから、そういう世界観なのはわかるだろ!と突っ込まれたら、たしかにそうなんですが……。『シン〜』というタイトルを意識するあまり、『シン・ゴジラ』を踏まえた偏見を持って臨んでしまった自分の問題であるという点も否めない。


もうこれは、主観の問題ということで先に進みましょう。


②そんなに人間が好きになったの……か? ウルトラマン


「そんなに人間が好きになったのか、ウルトラマン


初代ウルトラマンの最終回で、自分の命をハヤタにあげたいと言ったウルトラマンに、ゾフィが返した言葉です。『シン・ウルトラマン』では、これと同じ会話が、同じシチュエーションで再現されています。


ウルトラマンが人間に対して抱いた愛情の深さを示す、重要な言葉だと思います。


しかし、『シン・ウルトラマン』におけるこのゾフィ(正確にはゾーフィですが)の言葉は、初代マンとそれと同じくらい重みを持っているのでしょうか。


初代ウルトラマンは全39話のエピソードを重ねる中で、ハヤタを介して様々な人物に触れていきました。その中には科学特捜隊の隊員だけでなく、多くの市井の人々も含まれます。大人も子どもいます。


その交流があったからこそ、ウルトラマンが人間という生き物に魅せられていったという事実には、説得力が生まれます。


翻って『シン・ウルトラマン』は、そういった人間を学ぶプロセスの描写が、ほとんどなかった印象です。ウルトラマンと融合してからの神永は、(特にガボラ戦の後から)無断欠勤を繰り返し、禍特対メンバーとはかなりの時間、没コミュニケーション状態にありました。


その間、一般市民と交流していたような様子もなく、図書館(?)でレヴィ=ストロースの本とかを読みあさったり、ザラブに誘拐されて軟禁されたり、メフィラスと居酒屋でだべったり、そんな調子です。


そして、いざクライマックスに入る頃には、いつの間にか抱いていた人間への惜しみない愛を口にし、ゾーフィと対峙し、ゼットンとの絶望的な戦いに身を投じていきます。


それから自らを犠牲にしてゼットンを倒し、件の「そんなに人間が好きになったのか、ウルトラマン」パートに入るわけですが、このようにウルトラマンが人間の価値を認識するプロセスが(少なくとも劇中の描写としては)ほとんどないため、そんなに人間が好きになったように感じられないわけです。


いや、ウルトラマンは最初のネロンガ戦で、自分を犠牲にして男の子を助けた神永の献身に心を打たれた。その時点で、人間に魅了されていたんだ。そういう解釈もあるでしょう。


ただ、そうなってくるとガボラ戦〜メフィラス戦は、ゼットンが登場するまでのお膳立てでしかなく、非情に空虚なプロセスになってしまいます。また、樋口真嗣監督は次のように説明しています。


この映画では禍特対メンバーの個性が、非情に重要でしたから。ウルトラマンが人間を受け入れ、人間もウルトラマンを受け入れるまでの物語なので、ウルトラマンである神永が直接出会う、いわば人間代表としての禍特対の面々が魅力的でなくてはいけなかったんです。


『シン・ウルトラマン』は、「禍特対メンバーとのつながりによって、ウルトラマンが人間という生き物の尊さを知り、自らの命を賭して人類を滅却から救う話」だと要約できると思います。ところが、人間の尊さを知るという描写が不十分なため、そんなに人間が好きになったという結論へと確信を持って着地ができない。その点が、クライマックスの盛り上がりを削ぐ要因でもあると考えます。


しかし、こういう意見もあると思います。


いや、ウルトラマンはそもそも本質的に慈愛の戦士であり、そんなプロセスを経なくても人類愛を持つに至るのだ。


たしかにウルトラマンは宇宙人であって、地球人ではありません。人間と同じような思考で、愛だとか命の尊さを理解するとは限りません。


うーん、ますますわからなくなってきました。



③連続ドラマ性の再現


5本のエピソードをチョイスして、単純に数珠繋ぎすれば映画になるかといえば、そうでもないんじゃないかと。そこは脚本の庵野秀明が、30分でしかできない物語を繋ぎながら、ちゃんと2時間の映画として収まりどころを含めて、見事に形にしてくれました。


そう樋口監督はおっしゃっていますが、私は一本筋の通った映画とは感じられず、どうしても5本のエピソードをまとめた総集編的な感じが拭えませんでした。それはひとえに、全編を貫く物語の芯が、弱いためではないかと思います。


例えば『シン・ゴジラ』のストーリーは、「はたして日本はゴジラを倒せるのか」という強固な背骨に支えられていました。その強い芯があるからこそ、最後まで「どうなるんだ?」という興味が持続する作劇になっていたと思います。


その点、『シン・ウルトラマン』にはそれくらい強い物語上の背骨がないと思うのです。というか、5つのエピソードによってぶつ切りにされているため、怪獣や外星人を倒す度に一区切りつく感じが、物語を転がせる流れを停滞させているような気がしました。


登場人物の気持ちが物語を押し進めるのではなく、次々と怪獣・外星人が現れては、それに対処するためウルトラマンと禍特対が与えられた設定のままに動き、ひとつひとつ仕事をこなしていく。そんな段取り臭さが拭えなかったのです。


これについては、むしろ『シン・ウルトラマン』は、そういった連続ドラマのような「次はどんな怪獣が出てくるんだろう?」という楽しみを、一本の映画内で再現してみせたところが素晴らしい。そういったご意見も目にしました。


それはたしかに一理あるなと思います。ネットで報告されている、「どうやら『シン・ウルトラマン』は小さい子どもの受けが良いみたい」という傾向は、擬似的な連続ドラマ形式だからこそ引き出せた結果なのかもしれません。


子ども達が新しいウルトラマンに熱狂しているのは、それだけで素晴らしいことだし、私のようないい大人がブーブー言うのは恥ずかしいことのようにも思えてきます。


ただ、そういう連続ドラマ性を再現するのであれば、映画ではなく配信ドラマとかの方が良かったんじゃないか?と思ってしまうのも、また正直なところで……。しかし、映画館の大スクリーンで観ることができないとなると、それは嫌だ。であれば、やっぱり映画館で公開してくれたのは、ありがたい……


こうして『シン・ウルトラマン』のことを考えれば考えるほど、抜け出すことのできない思考地獄に陥ってしまいました。


助けて!ウルトラマン


ちなみに……

これは完全に感覚の問題だと思いますが、今回の会話のリズム、というかグルーヴがあんまり上手くいってないように感じました。カッティングのテンポ感とかは『シン・ゴジラ』っぽいんだけど、似ているようで何か違う。上手くリズムが取れてないというか、とにかく違和感があった。正直、序盤で没入することにつまずいたのは、この違和感が大きかったと思います。

ソフトが出たら、『シン・ゴジラ』と何が違うのか、じっくり比べてみたいです。


#シンウルトラマン