怪獣王の新時代──2010年代のゴジラ快進撃②
『GODZILLA ゴジラ』#2
前回見てきたように、ギャレス版『GODZILLA ゴジラ』の発端には坂野義光による3Dゴジラ作品の企画があった。それを実現せんとする彼の情熱が巡り巡ってレジェンダリー・ピクチャーズと東宝の契約へと結実したのだ。ただ、当初坂野が用意していたゴジラVSヘドラ(デスラ)のプロットがそのまま引き継がれたわけではなく、ゼロから製作チームが組まれ、彼らによって別のシナリオが模索される(坂野は企画がレジェンダリーのチームで新たに仕切り直されるにあたり、「環境問題について扱う」ことを約束したという)。
クレジットとしてはストーリー:デヴィッド・キャラハム、脚本:マックス・ボレンスタインとなっているが、彼らの他にフランク・ダラボンやデヴィッド・S・ゴイヤーらの手が加えられた。そしてでき上がったのは、ムートーなる古代モンスターの覚醒によってアメリカが混乱に陥る中、自然界の調和を取り戻すべくゴジラが出現し、ムートーとサンフランシスコで対峙するというものだった。結果的にではあるが、坂野が「ゴジラ対ヘドラ アット ザ マックス」で構想してた自然の秩序を守るゴジラというキャラクター像は、完成した作品と一致していたのである。
それはつまり、ゴジラを人類と敵対する存在として描かないことを意味していた。彼らはゴジラを、人類が恐怖する存在ではなく、畏怖すべき神として描いたのだ。そのゴジラ像は古参のファンに比較的受け入れられたが、実のところ、それまで東宝が打ち出してきたゴジラのイメージとは似て非なるものだったように思う。
「僕たちは、現実の世界で実際にゴジラを見たら、どんな姿だろうかということを突き詰めて考えていた。しょっちゅう会話の中で出てきたのは、『これが人間だったら、どんな人物なんだろう?』というものだった。それをしばらく考えた結果、僕たちが思いついたのは、きっと“最後のサムライ”みたいな存在じゃないかということ。できるなら世の中のごたごたから離れていたいんだが、世界で起きている出来事のために、やむなく再び表舞台にでてきた昔ながらの孤高の戦士、というアイディアだった」
劇場パンフレット掲載のギャレスの発言より
その神秘性は初代ゴジラに通じるところもあるし、『ゴジラ対ヘドラ』から『メカゴジラの逆襲』までにおける頼もしい正義の怪獣像にも重なるところがある。しかし、人類という存在にほとんど関心を示さず、砲撃されても敵意を見せない。彼の中には、ムートーを倒すという生態系の王としての使命(あるいは本能か)しかない。ゴジラは街を壊しているのではなく、たまたま彼の行く先に街があり、身体が当たって建物を破壊してしまった。そんな印象だ。こうしたキャラクターのゴジラは、ギャレス版以前にはいなかったと言って良い。オリジナルの骨子を受け継ぎつつも、彼らはそこに新たな解釈を盛り込み、自分たちのゴジラを生み出した。
本作のゴジラが新しかったのは、それだけではない。CGアニメーションでその姿が描かれたことも、大きなターニングポイントだった。着ぐるみやアニマトロニクスに頼らないゴジラは、これがシリーズ初である。
そのビジュアルがあらゆるファンを納得させる仕上がりだったというと嘘になるが、少なくともゴジラたる威厳と迫力は、東宝の着ぐるみ特撮が作り出してきたそれに勝るとも劣らないものであったこともまた事実である。そこには、ギャレスらスタッフ達のオリジナルに対するリスペクトがあった。
その証拠に、彼らはかのアンディ・サーキスを呼び寄せ、モーション・キャプチャーを駆使し、ゴジラの動きに人間の魂を入れた。そうすることで、着ぐるみゴジラの重厚感や動物と一線を画する歪さを、CGを使いつつ再現したのである。『新世紀特撮映画読本』に寄せられた切通理作氏のコラムの言葉を借りるならば、「着ぐるみを元にした、重力を重視した表現の進化形がそこにあった」。
2014年5月に全米公開されたギャレス版『GODZILLA ゴジラ』は、各国でヒットを記録し、世界興収5億ドルを突破。日本の誇る怪獣王が、いまだ世界で通用するムービー・アイコンであることを数字でも証明してみせた。これはその後のシリーズが発達していく上で、あまりにも大きく重要な成功だったと言えよう。ここで頓挫していたならば、今日我々が目にしている熱狂もなかったはずなのだ。
ただ、日本に限ってみると、この時点ではまだ真の意味でゴジラがかつてのブランドを取り戻すまでには至ってなかったように思う。その復活を目撃するのは、2016年の『シン・ゴジラ』まで待たなければならなかった。
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<参考文献>
『GODZILLA ゴジラ』劇場パンフレット
『新世紀特撮映画読本』(洋泉社刊)