悠田ドラゴのAll-Out ATTACK!!

悠田ドラゴのAll-Out ATTACK!!

カテゴリーをご覧になれば、どんなブログかだいたい察しがつくかと思います。

怪獣王の新時代──2010年代のゴジラ快進撃⑥

f:id:yuta_drago:20210120224925j:plain

アニメ『GODZILLA』三部作 #1

『シン・ゴジラ』の制作と並行して、別のプロジェクトが秘密裏に進められていた。後に『GODZILLA 怪獣惑星』『GODZILLA 決戦機動増殖都市』『GODZILLA 星を喰う者』から成る三部作として2017年から2018年にかけて公開された、ゴジラ・シリーズ初の劇場用アニメーション作品である。

 

本企画は「怪獣プロレスにはしない」「怪獣バトル主体にはしない」という東宝の方針の下でスタートした。その意図を噛み砕いて解釈するならば、怪獣同士の戦いが最大の見せ場ではないゴジラ映画を作る、ということになるだろう。あるいは、それまでの実写シリーズとは全く違った切り口のゴジラ映画を東宝側が求めていた、とも受け取れる。

 

このプロジェクトの船頭を任されたのは、虚淵玄(ストーリー・原案)、静野孔文(監督)、瀬下寛之(監督)という3名のクリエイター達だった。日本特撮の象徴として君臨してきた絶対的アイコンをアニメという手法で、しかも世界観を一新して作り直す。それがいかに困難で、リスクが伴う創造であるか、3人は当初から十分に理解していた。実際最初にオファーを受けた際、彼らは揃って難色を示している。ただ、アニメ版に先行して庵野秀明が監督を手掛ける実写版(『シン・ゴジラ』)が公開されると知ったことで、各々がゴジラのアニメ化に可能性を見い出すようになる。

 

以下はオファーを快諾するに至った理由を説明する、 虚淵の言葉だ。

 

シン・ゴジラ』は絶対に、特撮として王道のゴジラを復活させるものになるだろう、と。であるならば、アニメの「GODZILLA」は「未来のために新しい可能性を開拓する企画」として考えることができるので、そこでこの企画を引き受ける意義を見つけることができたのです。
特撮とアニメの違いはどこにあるのか。特撮がもっとも効力を発揮するシチュエーションは、「現実の風景の中に非現実的なものが入り込んだ状況」です。まさに『シン・ゴジラ』(2016)はそういう特撮の最前線にある作品として作られていました。ではかつてサイエンス・フィクションの名のもとに「ゴジラ」シリーズの中で描かれていた、荒唐無稽と言ってもいいほどのスケール感や、宇宙人の存在といった要素はどうすればいいのか。僕はその部分を、アニメの「GODZILLA」が引き受けるべきだと考えたのです。
(『GODZILLA 怪獣惑星』劇場用パンフレットより) 

 

我々が暮らす日常に現れたゴジラを描くという点において、アニメは特撮に対して分が悪いが、よりSF的でフィクション度の高い世界におけるゴジラを描くのであれば、アニメに勝算がある。そう判断した虚淵が作り出したストーリーの原案は、シリーズ中最も壮大で非日常的な物語だった。

 

20世紀末より始まった怪獣の襲撃、そして2030年に出現したゴジラのとてつもない破壊によって文明社会を蹂躙された人類は、2048年、地球での生存を断念し、宇宙へと逃避。20年間の航行の末に帰郷するが、地球では2万年もの時間が経過しており、もはや彼らが知っている母星の姿はそこにはなかった。しかも、彼らを絶望の淵へとたたき落としたゴジラは絶命しておらず、今もなお、この世界の絶対的頂点であった。再び宇宙へ逃げ戻るか、それとも地上へ下りるのか。人類は選択を迫られる…。

 

この導入部の説明だけでも、本三部作があまりにも巨大なスケールを誇り、過去作のどれよりも陰鬱なストーリーであることが伝わるだろう。その前日譚を描く小説『GODZILLA 怪獣黙示録』『GODZILLA プロジェクト・メカゴジラ』についても、「怪獣と人類が全面戦争になったらどうなるのだろう…?」「ゴジラがいよいよ人類を滅亡させるに至るとしたら…?」といったファンの妄想をそのまま描き出したかのような、あるいは『ゴジラ FINAL WARS』(2004年)を悪夢と恐怖でブーストしたような、救いのない内容だった。

 

さらに驚くべきは、人類がゴジラによって宇宙へ追いやられる以前に、ビルサルド、エクシフという母星を失った異星人が地球に現れ、ゴジラ抹殺のために協力関係を築いている点だ。地球人を遥かに凌駕する科学力と知能を誇る彼ら異星人の援助があってもなお、人類はゴジラを倒すことができず、3種族はそのまま宇宙航行をともにすることになった。

 

こうしたSF色が濃厚なストーリーが異色であるアニメ『GODZILLA』三部作を、私は主人公の名前をとって“ハルオ三部作”と勝手に呼んでいる。というのも、本作はSF的設定が云々ということ以上に、ハルオ・サカキという人物の内面を描くための物語であった点が、最も重要でユニークであるからだ。一人の人間の精神的変遷や葛藤をこれだけ丹念に描いたゴジラ作品は、後にも先にもこの『GODZILLA』三部作だけである。

 

体高300mという史上最も巨大な本作のゴジラは、絵的にも物語的にも存在感がある。しかし実際のところ、その存在を描くこと自体はこの映画の主眼ではない。それよりも本作が重きを置いているのは、ゴジラとの戦いを通して思い悩む主人公ハルオの姿を、外的にも内的にも映し出すことである。瀬下監督の言葉を借りるならば、『GODZILLA』三部作はどこまでも「ストーリー・オブ・ハルオ」であり、ゴジラはある意味、彼の“背景”に徹しているといっても良い。

 

そうして本作は、ゴジラに対峙した人間の葛藤をスクリーンに活写することで、最終的に怪獣とは何なのか?、怪獣は人類にとって一体どんな存在なのか?という観念的問いを観客に投げかけてくる。つまり『GODZILLA』三部作は、怪獣そのものの描写ではなく、怪獣によって追いつめられた人間側のドラマを通して、その存在意味を観客に考えさせる怪獣哲学映画とでも呼ぶべきものであった。

 

↓続きはこちら

yuta-drago.hatenablog.com

 

[参考文献・参照サイト]

劇場用パンフレット

 

Gigazine

「GODZILLA 星を喰う者」虚淵玄・静野孔文・瀬下寛之鼎談インタビュー、あのラストはどのように生み出されたのか?

 

アニメ!アニメ!

「GODZILLA 怪獣惑星」は国道246号線沿いで起きていた? 瀬下監督が挑んだ国産3DCGアニメの集大成とは