悠田ドラゴのAll-Out ATTACK!!

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怪獣王の新時代──2010年代のゴジラ快進撃⑨

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ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』 #2

ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』(以下『KOM』)はシリーズ史上、かつてないほどのスケールと映像水準で怪獣バトルを活写した一作である。その1点をもって、これこそ自分が見たかったゴジラ映画だと絶賛する人は少なくない。一方で、本作の人間ドラマや怪獣造形、ゴジラの解釈などを論点として、痛烈に批判する人もまた少なくない。そうした否定的な意見の中には、核に対するアティテュードを疑問視するものも含まれる。

 

『KOM』がクライマックスに至る直前のパートでは、アメリカ軍がギドラを抹殺するべく使用した秘密兵器オキシジェン・デストロイヤーによって瀕死の状態となったゴジラが、深く傷ついた身体を癒すため、海底の奥深くに眠る古代文明の遺跡へと逃れる。一方、オキシジェン・デストロイヤーによるダメージから短時間で回復したギドラの影響で、世界各地で怪獣たちが人間社会を攻撃。この危機的状況を打開できるのは──つまり、ギドラを倒すことができるのは、ゴジラしかいない。モナークの芹沢博士は単身潜水艇で遺跡に横たわるゴジラのもとへ赴き、自らの命を投げ出して核爆弾を運び、その爆発エネルギーで彼を復活させる。暴発寸前までエネルギーを充満させたゴジラは、死闘の末、ギドラを遂に撃破する。

 

この一連の流れは、ゴジラ核兵器によって救われ、人類もまた(間接的に)核兵器によって救われた、と解釈することが可能になってしまう。もちろん、マイケル・ドハティ監督を始め、映画の作り手たちに核兵器を肯定するつもりはなかっただろう。ただ、アメリカの2度にわたる原爆投下で21万人以上が虐殺され、水爆実験によって第五福竜丸被爆し、福島第一原発事故を経験した国の人間としては、そういった核の扱いに敏感にならざるを得ない。生き物を無惨に焼き殺す、究極の暴力装置である核兵器を、そもそも反核の精神が根っこにあるゴジラ・シリーズで、命を救うものとして使用したこと、あまつさえその行為を日本人である芹沢博士にさせたこと。これはいかがなものか。

 

一応断っておくと、シリーズを通して核兵器への批判がテーマになっているかというと、決してそんなことはない。核の恐怖やそれに対する問題提起を“物語的”に含んだ作品というのは、1954年および1984年の『ゴジラ』、『ゴジラVSデストロイア』、『シン・ゴジラ』くらいで、シリーズを俯瞰してみれば希薄にすら感じられる。故に、反核のアティテュードがゴジラ映画の必要条件だとは必ずしも言えないわけで、その要素が欠落しているからといって、ゴジラ作品として責められるいわれはないのである。ただ、それでも、『KOM』の核描写を看過することは難しい。

 

件のシークエンスについて、ドハティ監督は次のようにコメントしている。

 

本作の、新たな芹沢博士は、かつての芹沢の失敗を正すために行動しているのだと考えたかった。今回の芹沢博士も、オリジナルの芹沢博士と同じような道のりを歩んでいます。しかし1954年版の芹沢はゴジラを殺した。我々自身の神を殺したわけです。本作の芹沢は前回とは違って、自分の神を救おうとしています。

 

引用元:THE RIVER 【ネタバレ】『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』 芹沢博士の◯◯の意味、ラストシーン解説 ─ マイケル・ドハティ監督インタビュー

 

「1954年版の芹沢はゴジラを殺した」という点について簡単に補足しておくと、初代『ゴジラ』に登場する芹沢大助博士は、酸素を破壊して生物を液化させるオキシジェン・デストロイヤーを開発。その恐るべき破壊力が人類の悪意に利用されることを恐れ、ゴジラ抹殺のために使用することも躊躇していたが、ゴジラによって蹂躙された東京の惨状を目の当たりにし、自らの手で怪物を葬り去ることを決意する。そして芹沢博士は、ゴジラだけでなくオキシジェン・デストロイヤーをも永遠に葬り去るため、自身の意思で東京湾の底に命を散らした。

 

この芹沢博士の行為を「失敗」とするドハティ監督の見解には首肯しかねるが、とにかく彼は、これと対をなす、芹沢博士によるゴジラの救済を『KOM』で描きたかったのだ。そのためには、オキシジェン・デストロイヤーというかつて神を殺した悪魔の発明と同じ名前を持つ兵器でゴジラを追いつめ、そこから一気にゴジラを復活させる“何か”を芹沢博士に持たせ、彼に自己犠牲を強いる必要があった。その“何か”とは、ゴジラのエネルギー源である放射能を、効果的に与えられるものでなくてはならない。となると、“何か”に相当するのは核兵器しかないであろう。

 

そう考えれば、ドハティ監督のやろうとしたことは理解できるし、このような筋書きになったこともある程度は納得できる気がする。ただ、今度は別の疑問も生じてくる。ゴジラを復活させる絶対に失敗できないミッションに、なぜ潜水艇のエキスパートでもなければ、爆弾の扱いにも慣れていない、体力的にも難のありそうな高齢の生物学者に、重たい核兵器を運ばせたのか? 結局、その疑問は物語内ですっきり解決することはない。理由は物語の外にあるからだ。つまり、芹沢博士が命を賭してゴジラを救済するシークエンスを、ドハティ監督が欲していたからである。

 

また、これは前作『GODZILLA ゴジラ』から続く問題であるが、芹沢博士は狂信的と言ってもいいほどゴジラに心酔している。とにかくゴジラは偉大である、ゴジラを讃えよ、ゴジラ万歳! 劇中でそんな台詞を吐くことはないが、彼の行動や発言からはそのゴジラ礼賛精神が透けて見える。しかし、なぜ芹沢博士がこれほどまでにゴジラを尊ぶのか、その疑問に答えうる描写は物語内にない。とどのつまり、これも理由が外にあるからである。つまり、作り手のゴジラLOVEを、芹沢博士が代弁しているからだ。

 

『KOM』ははっきり言って歪な映画である。その歪さは、ドハティ監督の止めどないゴジラ愛に由来している。それがこの映画の欠点にもなっているが、これほどまでに怪獣愛で歪んだ作品が、ハリウッドのど真ん中で作られているというこの状況。それには歓喜せざるを得ないし、特撮ファンはただただ感謝するしかない。それもまた事実である。

 

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