悠田ドラゴのAll-Out ATTACK!!

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カテゴリーをご覧になれば、どんなブログかだいたい察しがつくかと思います。

『ゴジラ対ヘドラ』歪でサイケなヘンテコ怪獣映画

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シリーズ中最も奇怪で歪なゴジラ映画

監督を引き受けるからには、それまでの娯楽路線のゴジラ映画とは全く違う作り方をしたい。それには、第1作のようにきちんとした文明批評的なメッセージが必要だ─中略─今、ゴジラを通して訴えるべき文明批評的なメッセージは公害だ(坂野義光/『ゴジラ対ヘドラ』監督・脚本)
ゴジラを飛ばした男 85歳の映像クリエイター 坂野義光』(フィールドワイ刊)より


あの頃は低予算で撮影期間も10日〜2週間くらい。子供向けというのがはっきり打ち出されていましたね。大変でしたけど、何かやらなきゃって燃えてた時期でもあって、それでゴジラを飛ばしちゃった。(中野昭慶/『ゴジラ対ヘドラ』特殊技術)
『てれびくんデラックス愛蔵版 ゴジラ1954-1999超全集』(小学館刊)より


1971年7月24日に公開されたシリーズ第11作ゴジラ対ヘドラは、社会問題となっていた公害の恐怖を、怪獣ヘドラに仮託して描いた意欲作です。ゴジラの飛行シーンがファンの間で賛否両論となったことでも知られる本作は、特殊技術を担当した中野昭慶氏の証言にあるように、予算と時間が限られた厳しい条件下で製作されました。当時はテレビの台頭により映画産業が縮小していた時代であり、東宝も苦境に立たされていたからです。

 

そのため、『ゴジラ対ヘドラ』は本編班と特撮班を分ける従来の形ではなく、一班体制で撮影。また、1970年1月にゴジラの生みの親の1人である円谷英二が鬼籍に入り、特撮部門の主要スタッフが退社するなど混乱が起きていたことも、大きな痛手となっていました。それでも、坂野&中野の両氏はまだ若手だったということもあり、「いままでやってきてないことを、思い切ってやっちゃおうよ」(中野談)という気概を迸らせ、本作を完成させます。


このような状況下で生まれた『ゴジラ対ヘドラ』は、端的にいって異常な映画です。これまでに公開された日米ゴジラ・シリーズのどの作品と比べても、『ゴジラ対ヘドラ』ほど奇怪で実験精神に溢れた1本はないでしょう。もちろん、どの作品においても製作者が意匠を凝らしており、いずれも個性的な仕上がりになっていますが、『ゴジラ対ヘドラ』のユニークさは頭ひとつ抜きん出ていると言わざるを得ません。


宇宙からやってきた鉱物生命体がヘドロと融合して、怪獣ヘドラが誕生。巨大化&形態を変化させながら、硫酸ミストや強酸性のヘドロ弾をまき散らして各地に甚大な被害を与えるヘドラに、自然環境を守るべくゴジラが挑んでいく。この単純明快なストーリーを紡ぎ出す手法において、『ゴジラ対ヘドラ』は他の作品には見られない、前衛的ともいえるテクニックを駆使しています。


たとえば、劇中唐突に挿入されるアニメーション。安井悦郎氏が手がけたこのアニメーションは、場面転換における間奏曲的な役割を果たすと同時に、ヘドラによって壊れていく人間社会を戯画的に描き出すことで、観客に与えるショックを増幅しています。

 

タンカーが二つに裂かれるシーン、ヘドラ原油を呑むシーン、黒煙を吐く工場が起重機で緑を摘み取るシーン…。公害のテーマを明確に打ち出すうえでも大きな力を発揮したいくつかのアニメーション映像の中で、マスクをした女の頬のケロイド状の傷が被害地区の地図と重なるシーンには大きな手応えを感じた。
ゴジラを飛ばした男 85歳の映像クリエイター 坂野義光』より


また、中盤に登場するマルチスクリーンを用いたドキュメンタリー風の映像も特筆すべきポイントです。画面が2つ、4つ、8つ…最終的に32分割までされていき、ヘドラに対して怒りの声を上げる市井の人々、ヘドロの海につかった赤ん坊(照明スタッフ・原 文良のお孫さん)、頭蓋骨や奇形魚の頭部…など、リアルなものから抽象的なものまで様々な映像がランダムに映し出されていきます。ヘドラによる被害や混乱が拡散していく様を巧みに表現したこのシーンは、日本映画という大きな枠組みにおいても画期的でした。


そんな『ゴジラ対ヘドラ』の最大の魅力は、ヘドラという怪獣の恐ろしさ、異様さです。ヘドロ弾をまき散らして屍の山を築き、硫酸ミストによって逃げ惑う人々を白骨化させていく。あまつさえゴジラですら、ヘドラの身体に突っ込んだ右手の肉が溶け、ヘドロ攻撃を喰らった左眼は潰れるという、満身創痍の状態にまで追い込まれます。その上、身体はヘドロ物理的な攻撃は全く効かない。ある意味、ゴジラ最大のライバル怪獣であるキングギドラよりも厄介な敵なのです。


安丸信行氏によるヘドラの造形も素晴らしく、ぼろ切れの塊のようなその姿はまさに“異形の者”。坂野監督からの要望で女性器をイメージしてデザインされた目も、生理的に嫌悪感を感じざるを得ません。長い手をぶら下げてユラリユラリと動くその様は、まるで幽霊のようにも思えます。一から十まで不気味なところしかないのが、ヘドラという怪獣なのです。


このように『ゴジラ対ヘドラ』には実験的映像と奇怪な怪獣描写が詰め込まれていますが、決して恐怖映画あるいは大人向け映画というベクトルには振り切らず、あくまで子ども向けという体裁を守っています。その二面性こそが本作の歪さであり、子ども達にある種のトラウマを植え付けつつ、その心を惹き付けることもできた要因なのではないしょうか。

 

シリーズ唯一のサイケなギター・ソロが乱舞するゴジラ映画

ゴジラ対ヘドラ』には、ゴーゴー喫茶「アングラ」で若者達がバンド演奏に合わせて踊り狂う有名なシーンがあります。

 

ゴーゴーとは、ロックやソウル・ミュージックのリズムに合わせて体を激しく動かす踊りで、1960年代の中ごろにアメリカで始まり、世界中の若者の間で流行した。それが日本にも上陸し、アルコール類やソフトドリンク類を飲みながら、流れる音楽に合わせて踊ることができる若者向けバーとして大変人気を得た。
『HEDORAH/公害怪獣の映像世界・最終版』鷲巣義明(自主制作)より


主要登場人物である毛内行夫(演:柴本俊夫)と富士宮ミキ(演:麻里圭子)の2人もこの狂騒の中にいるのですが、グラスを片手にカウンターに腰掛ける行夫はすっかりへべけれな状態。一方のミキは、裸体にペインティングを施した刺激的な格好でステージに立ち(実際は肌のように見える薄手の衣類を着用し、その上にペインティングして撮影)、環境破壊に対する痛烈なメッセージ・ソングを熱唱。ここで歌われているのが、本作の主題歌「かえせ!太陽を」です。

 

坂野監督自身が作詞を手がけたこの曲では、水銀、コバルト、カドミウミといった汚染物質の名前が列挙されており、公害を引き起こした社会への怒りが露骨に表現されています。メロディー・ラインは明るくキャッチーですが、そこに乗せられた言葉は実に社会的で真摯なものでした。


このライヴ・シーンでは酩酊している行夫が辺りを見渡すと、周囲の人間の顔が一様に奇形魚の頭部へとすり替わっているというショック描写があります。これはもちろん彼の幻視なのですが、ここで行夫が単なる酔っぱらいではなく、クスリでラリッていることが暗示されており、今なお語り種となっています。

 

また「アングラ」のステージでは、まるでカラフルなアメーバがうごめいているかのようなサイケ調のライト演出がなされていますが、これは藤本晴美さんという女性ライト・アーティストが手がけたもの。2枚のアクリル板の間にアルコール、原色のインク数種、サラダオイルなどを入れ、リズムに合わせて手で動かし、強い光を当ててプロジェクターで投影する──という非常にアナログな手法で撮影されたものです。この幻想的なライティングも相まって、「アングラ」の場面は劇中随一のサイケデリックなシークエンスとなりました。


さて、ここで注目したいのが、ミキのバック・バンドにいるギタリストの演奏です。彼には特に役名もなく、どなたが演じていたのかもわかりません。また、音源の方で実際にギターを演奏したミュージシャンも、手元にある資料には記載がありませんでした。ただ、『映画芸術』誌の451号に寄稿された田中雄二氏のコラム「眞鍋作品の織り連なる軌跡をいま改めて確認する」(註:眞鍋とは『ゴジラ対ヘドラ』の音楽を手がけた作曲家の眞鍋理一郎)によれば、レコーディングに参加したのはアーティストの水谷公生ではないかという指摘があります(水谷氏は、キャンディーズなど人気アーティストの作品で、辣腕を振るった職人ギタリスト。作曲家・編曲家としても数多くのヒット曲に携わる)。


それはともかく、「アングラ」におけるライヴ・シーンはゴジラ作品において初めてハードなエレクトリック・ギターのいななきが聴けたという点で、少なくとも僕自身にとっては忘れ難い、記憶に刻まれた場面となりました。基本的にゴジラ映画の劇伴というのは、巨星・伊福部昭によるおなじみのテーマ曲を始めとして、各パートの演奏がしっかり設計された(アドリブの余地がない)楽曲が大部分を占めています。そんな中、楽譜に縛られない即興的(刹那的といってもいえる)で荒れ狂うギター演奏が劇中に流れる『ゴジラ対ヘドラ』は、その点において凄まじくユニークなのです。


本作が公開された1970年代初頭は、日本のロック史にとって過渡期でした。1960年代の終わりにGS(グループ・サウンズ)のムーブメントが収束していき、1970年にはRCサクセションはっぴいえんどフラワー・トラベリン・バンドといった、その後の国内ロック・シーンを牽引する重要バンドがデビュー。

 

またこの年の7月、1969年にニューヨーク州で開催されたウッドストック・フェスティバル(正式名称はWoodstock Music and Art Festival)の記録映画が公開されました。その中で火を噴くかのごとき鮮烈なギター演奏を聴かせ、泥沼化するベトナム戦争への痛烈な反対声明を音楽で表したジミ・ヘンドリックスの姿は、多寡の差はあれど、間違いなく当時のミュージシャン、わけてもギタリストに衝撃を与えたのです。


そうして日本の音楽文化が大いに刺激を受けている時代に、『ゴジラ対ヘドラ』は作られました。これは想像の域を出ませんが──しかし、その音を聴く限りにおいて、本作のギター演奏にはウッドストックを介して日本に流入してきたヘンドリックスの反骨の血が、みなぎっているように感じられます。


ちなみに、『ゴジラ対ヘドラ』の劇伴のレコーディングにおいてどんな機材が使われたのか知る由もありませんが、ワウ・ペダルというエフェクターは確実に使用されています。ワウは、ペダルを足の操作により開閉することで、その名の通り「ワウワウ」というニュアンスのギター・サウンドが得られます。ギター弾きの方には説明するまでもない定番機材なのですが、その方面の話しに明るくない人にはピンとこないでしょう。邦楽でいうと、ウルフルズの「ガッツだぜ!!」のイントロなどがワウを使った有名なフレーズでしょうか。とにかく、ジャンルを問わず活躍してきたエフェクターなのです。


ゴジラ対ヘドラ』では、「アングラ」のライヴ・シーン以外にもう一ヵ所、ワウ・ギターを堪能できるシーンがあります。映画の終盤、行夫とミキたちが富士の裾野で開催した「公害反対!! 100万人ゴーゴー」の場面です。“100万人”と謳いながら、実際に集まったのは1万分の1の100人。荒野に座り込んだ若者たちは、行夫の奏でる悲しげなアコースティック・ギターの音色を聴きながら、何をするわけでもなくボーッとしています。

 

すると、出し抜けにジャーンと威勢よくギターをストロークした行夫が、「しょぼくれたって仕方ない。歌おう、みんな!踊ろう、みんな!せめて、俺たちのエネルギーをぶちまけよう!」と半ばやけくそ気味に叫び、ここからハードなロックの演奏がスタート。仲間達も一斉に立ち上がり、音楽にのせて踊り狂います。


ここで演奏されているのは、サントラ盤で「俺たちのエネルギー」というタイトルが付けられたインストゥルメンタル(ヴォーカルのない楽器演奏のみの曲)です。同曲は常時ワウを踏みながらプレイされるギターが、徹頭徹尾テンションの高いサウンドを聴かせています。こんな荒野のど真ん中で、果たしてアンプを稼働させるための電力はどこから供給されているのか?と疑問が湧いてこないでもないのですが、そんな些細なことは関係ねえ!とばかりに、アドリブでガンガンに弾きまくっているわけです。ゴジラ映画を見ていて、まさかこれほどまでに狂ったギター描写が拝めるなんて、いったい誰が予想していたでしょうか!


ちなみに、驚くことに、100万人…もとい100人ゴーゴーの最中に現れたヘドラの必殺ヘドロ弾によって、行夫はあっけなく絶命してしまいます。興味深いのは、その死をとらえたカットの演出は非常にドライで淡々としているばかりか、その惨状を目撃していたミキと研少年(行夫の甥っ子)が、悲しんだりといった反応を一切示さないことです。2人よりも、映画を観ている我々の方がよっぽど行夫の死に心を痛めている…そう思えるくらい、ミキと研少年、および映画の作り手たちは彼の最期に対して超ドライな態度を貫いている。これについて、坂野監督は次のように語っています。

 

ゴジラ対ヘドラ』はヘドラの生態と成長を克明に描いていく。人間はそれを受けて動いて、ことさら心の動きは描かれない。人物は重要ではなくて、だから主人公の男にも、ヘドロを浴びせて簡単に殺してしまった。『別冊映画秘宝 特撮秘宝vol.4』(洋泉社刊)坂野義光インタビューより


映画の主人公はあくまでヘドラと、それに立ち向かうゴジラであり、彼らをエモーショナルに描くこそすれ、背景にある人間模様はことさら感傷的に描く必要はなかった。たしかに、人間側のドラマを丁寧に描いていったとしたら、物語のスピードは減じて冗長になり、映画の勢いが著しく削がれていたことでしょう。『コマンドー』級の死に対するドライな態度は、実に理にかなったものだったわけですね。


閑話休題。とにかく『ゴジラ対ヘドラ』は、シリーズ最“狂”のぶっ飛び映画であると同時に、サイケなロック・ギター描写を取り入れた唯一のゴジラ作品でもあるわけです。というわけで、もし今後ヘドラが登場する新たな作品が作られるのであれば、本作に勝るとも劣らない実験精神と挑戦的マインド、そして何よりクレイジーなギター描写があることを願って止みません。いや、なければならぬ! それがヘドラ映画の要諦なのだから!!