悠田ドラゴのAll-Out ATTACK!!

悠田ドラゴのAll-Out ATTACK!!

カテゴリーをご覧になれば、どんなブログかだいたい察しがつくかと思います。

怪獣王の新時代──2010年代のゴジラ快進撃⑩

f:id:yuta_drago:20210120224925j:plain

これからのゴジラ

2020年はパニック映画の世界にぶち込まれたような一年となった。いや、それは過去形ではなく、今もなお続いている。新型コロナウイルスが引き起こしたパンデミックは、エンターテイメントの世界を完膚なきまでに打ちのめし、映画館は一時期もぬけの殻となった。

 

この年、本来であればゴジラとコングが、世界各地のスクリーンで組んず解れつの激闘を繰り広げているはずだった。しかし、彼らもコロナの猛威を免れず、モンスター・ヴァース最新作『ゴジラVSコング』は延期を余儀なくされてしまう。その間、暗いニュースばかりが続き、映画界にとっては悪夢のような状況の中、我々はただひたすら待っていた。

 

そして2021年1月、その溜まりに溜まった不満ガスを、一気に解放する1本の動画が公開された。正式な予告編の第1弾である。空母の上でゴジラの顔面に拳を振るうコング、明らかに人間に対して敵意を剥き出しにし、熱線で建物を吹き飛ばすゴジラ、バカでかい斧をこしらえるコング…。予告編にしてラーメンにチャーハンと餃子とビールがついたような、豪奢をきわめるてんこ盛り映像が、我々の溜飲を下げた。

 

そして3月には、日本に先立ち中国やアメリカで遂に『ゴジラVSコング』が解禁。日本ではそれから2ヵ月遅れて5月に公開される予定だったが、忌まわしきコロナがまたもやそれを阻み、結局7月に再延期となった。ともかく、本日から日本で『ゴジラVSコング』が見られる。やっと。やっとだ。もはや待ち過ぎて、公開される実感が湧かないが、映画館のスケジュールを見れば、そこには2大怪獣の名前が躍っている。

 

嬉しいことは他にもある。コロナ以後、最初に発表された国産ゴジラ作品である全13話のアニメ番組『ゴジラS.P<シンギュラポイント>』が先日完結した。端的にいって、素晴らしい作品だった。視聴者を振るい落とす気満々な難解&早口学術ワードのつるべ打ちでスピーディに進む科学ミステリー。知的好奇心を絶えずくすぐりながら、徐々に怪獣たちによって浸食されていく人間社会の混乱を、こちらもテンポよく描き出す。そして、ラドンアンギラス、クモンガ、マンダといった過去作の怪獣を投入し、一捻り加えた新しいキャラクター性を持たせることで、こちらが想定していなかった魅力を引き出してもいる。極め付けは○○○○○○○○だ。シリーズ屈指の荒唐無稽さを誇る○○○○○○○○の巨大化を、ただ単にファンサービスとして使うのではなく、物語的な意味をしっかりと持たせ、なおかつ絵的な感動にもつなげてみせた。

 

こんなにもゴジラでウハウハな日々を過ごせていることは、にわかには信じ難い。すっかり茹で上った頭を冷やして考えてみれば、『ゴジラVSコング』が公開された後、はっきりと発表されているゴジラ作品は実のところない。ここ数年は、モンスター・ヴァースの新作が数本待ち構えていたり、日本ではアニメ版が連続公開されたりで、ゴジラで事欠くことはなかった。モンスター・ヴァースが止まり、日本国内のゴジラ作品も続かないとなると、ともすれば再びゴジラは休眠期に入ってしまうとも限らない。

 

それはダメだ! 断じて許さん! 人間ならICU直行な瀕死状態のゴジラの面前で容赦なく核兵器をドカンと爆発させ、無理矢理現場復帰させたかのドクター・セリザワのごとく、我々も心をワタミなみのブラック・マインドにしてゴジラを働かせ続けなくては。ということで、こんなご時世で思うように映画館へ足を運べない方も多いと思いますが、ジョン・カーペンター啓蒙漫画(と勝手に思っている)『鬼滅の刃』の劇場版が持つ動員記録を塗り替える勢いで、皆さん『ゴジラVSコング』を鬼リピートしましょう。そして、東宝とレジェンダリー/ワーナーに、やっぱりゴジラは作り続けなくちゃあかん!と圧力を与えましょう。

 

LONG LIVE THE KING!!

 

怪獣王の新時代──2010年代のゴジラ快進撃⑨

f:id:yuta_drago:20210120224925j:plain

ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』 #2

ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』(以下『KOM』)はシリーズ史上、かつてないほどのスケールと映像水準で怪獣バトルを活写した一作である。その1点をもって、これこそ自分が見たかったゴジラ映画だと絶賛する人は少なくない。一方で、本作の人間ドラマや怪獣造形、ゴジラの解釈などを論点として、痛烈に批判する人もまた少なくない。そうした否定的な意見の中には、核に対するアティテュードを疑問視するものも含まれる。

 

『KOM』がクライマックスに至る直前のパートでは、アメリカ軍がギドラを抹殺するべく使用した秘密兵器オキシジェン・デストロイヤーによって瀕死の状態となったゴジラが、深く傷ついた身体を癒すため、海底の奥深くに眠る古代文明の遺跡へと逃れる。一方、オキシジェン・デストロイヤーによるダメージから短時間で回復したギドラの影響で、世界各地で怪獣たちが人間社会を攻撃。この危機的状況を打開できるのは──つまり、ギドラを倒すことができるのは、ゴジラしかいない。モナークの芹沢博士は単身潜水艇で遺跡に横たわるゴジラのもとへ赴き、自らの命を投げ出して核爆弾を運び、その爆発エネルギーで彼を復活させる。暴発寸前までエネルギーを充満させたゴジラは、死闘の末、ギドラを遂に撃破する。

 

この一連の流れは、ゴジラ核兵器によって救われ、人類もまた(間接的に)核兵器によって救われた、と解釈することが可能になってしまう。もちろん、マイケル・ドハティ監督を始め、映画の作り手たちに核兵器を肯定するつもりはなかっただろう。ただ、アメリカの2度にわたる原爆投下で21万人以上が虐殺され、水爆実験によって第五福竜丸被爆し、福島第一原発事故を経験した国の人間としては、そういった核の扱いに敏感にならざるを得ない。生き物を無惨に焼き殺す、究極の暴力装置である核兵器を、そもそも反核の精神が根っこにあるゴジラ・シリーズで、命を救うものとして使用したこと、あまつさえその行為を日本人である芹沢博士にさせたこと。これはいかがなものか。

 

一応断っておくと、シリーズを通して核兵器への批判がテーマになっているかというと、決してそんなことはない。核の恐怖やそれに対する問題提起を“物語的”に含んだ作品というのは、1954年および1984年の『ゴジラ』、『ゴジラVSデストロイア』、『シン・ゴジラ』くらいで、シリーズを俯瞰してみれば希薄にすら感じられる。故に、反核のアティテュードがゴジラ映画の必要条件だとは必ずしも言えないわけで、その要素が欠落しているからといって、ゴジラ作品として責められるいわれはないのである。ただ、それでも、『KOM』の核描写を看過することは難しい。

 

件のシークエンスについて、ドハティ監督は次のようにコメントしている。

 

本作の、新たな芹沢博士は、かつての芹沢の失敗を正すために行動しているのだと考えたかった。今回の芹沢博士も、オリジナルの芹沢博士と同じような道のりを歩んでいます。しかし1954年版の芹沢はゴジラを殺した。我々自身の神を殺したわけです。本作の芹沢は前回とは違って、自分の神を救おうとしています。

 

引用元:THE RIVER 【ネタバレ】『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』 芹沢博士の◯◯の意味、ラストシーン解説 ─ マイケル・ドハティ監督インタビュー

 

「1954年版の芹沢はゴジラを殺した」という点について簡単に補足しておくと、初代『ゴジラ』に登場する芹沢大助博士は、酸素を破壊して生物を液化させるオキシジェン・デストロイヤーを開発。その恐るべき破壊力が人類の悪意に利用されることを恐れ、ゴジラ抹殺のために使用することも躊躇していたが、ゴジラによって蹂躙された東京の惨状を目の当たりにし、自らの手で怪物を葬り去ることを決意する。そして芹沢博士は、ゴジラだけでなくオキシジェン・デストロイヤーをも永遠に葬り去るため、自身の意思で東京湾の底に命を散らした。

 

この芹沢博士の行為を「失敗」とするドハティ監督の見解には首肯しかねるが、とにかく彼は、これと対をなす、芹沢博士によるゴジラの救済を『KOM』で描きたかったのだ。そのためには、オキシジェン・デストロイヤーというかつて神を殺した悪魔の発明と同じ名前を持つ兵器でゴジラを追いつめ、そこから一気にゴジラを復活させる“何か”を芹沢博士に持たせ、彼に自己犠牲を強いる必要があった。その“何か”とは、ゴジラのエネルギー源である放射能を、効果的に与えられるものでなくてはならない。となると、“何か”に相当するのは核兵器しかないであろう。

 

そう考えれば、ドハティ監督のやろうとしたことは理解できるし、このような筋書きになったこともある程度は納得できる気がする。ただ、今度は別の疑問も生じてくる。ゴジラを復活させる絶対に失敗できないミッションに、なぜ潜水艇のエキスパートでもなければ、爆弾の扱いにも慣れていない、体力的にも難のありそうな高齢の生物学者に、重たい核兵器を運ばせたのか? 結局、その疑問は物語内ですっきり解決することはない。理由は物語の外にあるからだ。つまり、芹沢博士が命を賭してゴジラを救済するシークエンスを、ドハティ監督が欲していたからである。

 

また、これは前作『GODZILLA ゴジラ』から続く問題であるが、芹沢博士は狂信的と言ってもいいほどゴジラに心酔している。とにかくゴジラは偉大である、ゴジラを讃えよ、ゴジラ万歳! 劇中でそんな台詞を吐くことはないが、彼の行動や発言からはそのゴジラ礼賛精神が透けて見える。しかし、なぜ芹沢博士がこれほどまでにゴジラを尊ぶのか、その疑問に答えうる描写は物語内にない。とどのつまり、これも理由が外にあるからである。つまり、作り手のゴジラLOVEを、芹沢博士が代弁しているからだ。

 

『KOM』ははっきり言って歪な映画である。その歪さは、ドハティ監督の止めどないゴジラ愛に由来している。それがこの映画の欠点にもなっているが、これほどまでに怪獣愛で歪んだ作品が、ハリウッドのど真ん中で作られているというこの状況。それには歓喜せざるを得ないし、特撮ファンはただただ感謝するしかない。それもまた事実である。

 

↓つづきの記事

yuta-drago.hatenablog.com

怪獣王の新時代──2010年代のゴジラ快進撃⑧

f:id:yuta_drago:20210120224925j:plain

ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』 #1

ギャレス・エドワーズ監督作『GODZILLA ゴジラ』が、アメリカから2ヵ月ほど遅れて日本で公開された2014年7月下旬。“コミコン インターナショナル サンディエゴ”に出席したレジェンダリー・ピクチャーズのトーマス・タルは、同作の続編が制作されることを明かした。その発表について驚愕したのは、彼が東宝から使用許可を得たという三体の怪獣の名前である。ラドンモスラ、そしてキングギドラ。レジェンダリーは『GODZILLA ゴジラ』の次に『三大怪獣 地球最大の決戦』を、ハリウッドで再現しようとしていた。

 

さらに翌年には、ゴジラキングコングが相まみえるクロスオーバー作品の制作が示唆される。ワーナー・ブラザーズとレジェンダリーは、日米のスーパー・モンスターを同一の世界に解き放った映画内ユニバースを創造しようとしていたのだった。果たしてこの構想は、2014年の『GODZILLA ゴジラ』を起点とする“モンスター・ヴァース”シリーズへと発展。同シリーズにおいて物語上の重要な柱を担う秘密組織モナークとコングの邂逅を描く前日譚『キングコング:髑髏島の巨神』、ゴジララドンモスラキングギドラが激突する『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』(以下『KOM』)、そして件の『ゴジラVSコング』という3作品が制作/公開されることとなった。2010年代後半、我々はかつて経験したことのない驚天動地の大怪獣時代へと突入したのである。

 

そうした発表がなされた時点ではまだ、前作に続きギャレスが『KOM』の監督として続投する予定だった。彼は『GODZILLA ゴジラ』の後、『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』というこれまた超大作を任され、その仕事を完遂し、興行的にも大成功を収める。時代の寵児と言って差し支えない存在となった。しかし、「小規模作品に取り組むため」という意味深長なステートメントを残し、ギャレスは『KOM』から降板してしまう。

 

ここでレジェンダリーは、ギャレスが手放したメガホンをマイケル・ドハティに託す。『X-MEN2』や『スーパーマン リターンズ』の共同脚本を務めた他、同社制作の『クランプス 魔物の儀式』といった作品を監督した人物である。莫大な予算を使って、ハリウッドの最先端映像技術を駆使し、東宝が誇るスター怪獣の一大バトルを描く。そんな贅沢を極めた怪獣ファンにとって垂涎の…いや、嬉しすぎて失禁するようなチャンスを手にしたドハティは、幼い頃から『ゴジラ』シリーズを貪るように見て育った筋金入りのオタクだ。特に1954年の初代『ゴジラ』に対する愛着は強く、ギャレス版ゴジラのデザインを引き継ぎつつも、新作の制作にあたり、彼は自らPhotoshopで前作のゴジラに初代の背びれを合成し、「こんな感じで」とデザイナーに提示したそうだ。(『映画秘宝 2019年2月号』より)。

 

ドハティはギャレスが確立した“自然界の調停者”としてのゴジラ像を崩すことなく、“怪獣王”としての側面を『KOM』でブーストさせる。そこには彼自身の、ゴジラに対する敬意や思慕といった感情が、ストレートに投影されているように思う。

 

「巨大なクリーチャーが僕たちの生活をしている地面の下で眠っていて、ある時それが目覚める。彼らは元々いた存在だから、どこを見ても怪獣がいる世界になって、人類はそれに合わせて生きていかなくてはいけない。そんなことを子供ながらに夢想していたんです」
「僕は怪獣が表現しているのは、母なる自然だと思うんです」

 

これらはパンフレットで確認できるドハティの言葉だが、『KOM』にはこうした彼のビジョンが、物語から登場人物の台詞にいたるまで、隅々まで色濃く反映されている。特に前作から引き続き登場するモナークの研究者:芹沢猪四郎博士は、ドハティの代弁者とでもいうべき存在だ。世界各地でゴジラに匹敵する巨大生物──劇中では“タイタン”と呼ばれる──の存在が次々と確認され、それらを駆逐すべきという声が高まる中、芹沢はタイタンが世界の支配者であることを甘受し、彼らと共生すべきと訴える。

 

言うなれば本作は、母なる自然の化身たるゴジラがタイタンの頂に立ち、芹沢博士=ドハティが理想とするGODZILLA RULESな世界を形成するまでの物語だ。そこで障壁となるのは、地球環境にとって害悪でしかない文明社会は、怪獣達によって滅ぼされるべきと過激な思想を振りかざすテロ集団によって目覚めさせられたギドラである。地球由来の怪獣王ゴジラが、宇宙からやってきた侵略者ギドラと対峙。そこにラドンモスラといった他のタイタンも加わり、地球の統治者を決する死闘へと突き進む。

 

そこに人間が介入する余地はない。ドハティは自然という存在がどれだけ恐ろしいものなのか、その存在に対していかに人間がちっぽけで無力な存在であるか、映画を介して我々に突きつけてくる。そして「ゴジラを讃えよ、ゴジラ万歳!」という、監督のピュアな思いをあまりにもストレートに描写してもいる。端的に言えば、本作はそんな映画である。

 

↓続きの記事はこちら

yuta-drago.hatenablog.com

 

 

怪獣王の新時代──2010年代のゴジラ快進撃⑦

f:id:yuta_drago:20210120224925j:plain

アニメ『GODZILLA』三部作 #2

かつてないスケールの世界観が用意されたアニメ『GODZILLA』三部作は、ゴジラのデザインもこれまでとは一線を画していた。その出発点には、「生命進化の頂点」という虚淵が提示したコンセプトがあり、瀬下監督はそれをもとにスケッチ画を作成している。

 

「生命進化の頂点」に君臨するものとは何か? 瀬下は、地球上において最も巨大で長寿命である「樹木」こそが本作のゴジラのモチーフに相応しい、と結論。ここから、巨木のイメージを投影した新しいゴジラ像の模索が始まる。あくまでゴジラらしいシルエットを維持しつつ、金剛力士像の筋骨隆々さを取り入れるなどしながら、神性をまとったデザインの骨子が形作られていった。

 

この瀬下によるスケッチをもとに、造形監督の片塰満則が指示を出し、笹間豊がマケット・スカルプティングによってCGモデルの土台を作成。コンセプトアート担当の川田英治が彩色や質感など、最終的なディティールを調整している。

 

こうして完成した体高300mというシリーズ屈指の巨躯を誇るゴジラだが、アニメ『GODZILLA』三部作はその巨神を使った破壊や敵怪獣との戦いを描くことに重きを置いていない。前回述べたように、本作はあくまで主人公ハルオの内面的葛藤の物語だからだ。三部作を通して、最も重要なのはゴジラ自体の描写ではなく、ハルオが苦悩の末に、人類が成すべきことについてある結論に達するという心理的描写だった。

 

それ故に、本作は“特撮”としてのゴジラを期待し、実写シリーズと同様のスタンスで臨んだ観客の間に、賛否両論を巻き起こした。否の意見の中には、拒絶とも受け取れる辛辣なものも少なくなかった。もちろん他のゴジラ作品のおいても、常に批判者は一定数いるわけだが、例えば『シン・ゴジラ』の公開時と比較すると、アニメ『GODZILLA』三部作に対して攻撃的な批評が多かった感は否めない。

 

なぜこうした反応を引き起こしたのか。その要因として、先に挙げたゴジラ描写が主眼でなかったことの他に、制作時の「間口の広げ方」という点も指摘しておきたい。

 

GODZILLA 怪獣惑星』のパンフレットに掲載されている静野、瀬下の両監督と虚淵が一堂に会した鼎談では、何度か「間口を広げる」という発言が出てくる。彼らによれば、3人が集まって話をした際、元々怪獣映画を愛好していた瀬下と虚淵の2人がファン目線でアイデアを膨らませようとしたとき、全くゴジラ・シリーズに触れたことのない静野が置いてけぼりになるようであれば、そのアイデアを却下する──そんなことが度々あったようだ。そうやって映画の「間口を広げていった」と。このエピソードからは、静野監督が持つ客観的な視点のジャッジによって、怪獣映画好きが内輪的に盛り上がる要素をできる限りなくしていき、より幅広い観客の鑑賞に耐えうる作品を目指していたことがうかがえる。

 

それはたしかに、現実とかけ離れた映画内世界に一定のリアリティを確保し、全体のトーンを統一するためには必要なプロセスだったと言えるだろう。硬派なSFを目指していながら、過去のゴジラ・シリーズで目にしたような突飛な宇宙人や人物を登場させるのは、素人目から見ても明らかに矛盾している。

 

ただ、それは同時に、怪獣映画ファンがアガる要素を摘み取っていく作業とも言えるのではないか。今までのゴジラ・シリーズを特徴づけていた歪さを、減じていくことになったのではないか。有り体に言えば、ゴジラ映画としての魅力を薄めていくプロセスでもあったのではないか。

 

そう考えると、一部のファンから拒絶反応が起きたことも自明のように思える。そんなアニメ『GODZILLA』三部作の制作スタンスの良し悪しを、ここで結論づけるつもりは毛頭ない。重要なのは、そういったリスクを冒してでも、東宝がこれまでにないゴジラ映画を世間に提示して、新しいファン層を開拓しようとした事実である。

 

ゴジラははたして、どれほどのポテンシャルを秘めたキャラクターなのか。今後、どんなフィールドや方向性で作品を展開していけるのか。近年の動向を見るにつけ、東宝はそうしたゴジラの可能性を模索しているように思えるが、王道の特撮路線をいった『シン・ゴジラ』に対して、アニメ『GODZILLA』三部作はゴジラというタレントの新天地を切り開くための嚆矢だったのかもしれない。

 

60年以上のキャリアを持つ大ベテラン怪獣は、今なお自身のポテンシャルに対して挑戦を続けているのである。

 

↓続きの記事はこちら

yuta-drago.hatenablog.com

 

[参考文献・参照サイト]

劇場用パンフレット

 

Gigazine

「GODZILLA 星を喰う者」虚淵玄・静野孔文・瀬下寛之鼎談インタビュー、あのラストはどのように生み出されたのか?

 

アニメ!アニメ!

「GODZILLA 怪獣惑星」は国道246号線沿いで起きていた? 瀬下監督が挑んだ国産3DCGアニメの集大成とは

 

怪獣王の新時代──2010年代のゴジラ快進撃⑥

f:id:yuta_drago:20210120224925j:plain

アニメ『GODZILLA』三部作 #1

『シン・ゴジラ』の制作と並行して、別のプロジェクトが秘密裏に進められていた。後に『GODZILLA 怪獣惑星』『GODZILLA 決戦機動増殖都市』『GODZILLA 星を喰う者』から成る三部作として2017年から2018年にかけて公開された、ゴジラ・シリーズ初の劇場用アニメーション作品である。

 

本企画は「怪獣プロレスにはしない」「怪獣バトル主体にはしない」という東宝の方針の下でスタートした。その意図を噛み砕いて解釈するならば、怪獣同士の戦いが最大の見せ場ではないゴジラ映画を作る、ということになるだろう。あるいは、それまでの実写シリーズとは全く違った切り口のゴジラ映画を東宝側が求めていた、とも受け取れる。

 

このプロジェクトの船頭を任されたのは、虚淵玄(ストーリー・原案)、静野孔文(監督)、瀬下寛之(監督)という3名のクリエイター達だった。日本特撮の象徴として君臨してきた絶対的アイコンをアニメという手法で、しかも世界観を一新して作り直す。それがいかに困難で、リスクが伴う創造であるか、3人は当初から十分に理解していた。実際最初にオファーを受けた際、彼らは揃って難色を示している。ただ、アニメ版に先行して庵野秀明が監督を手掛ける実写版(『シン・ゴジラ』)が公開されると知ったことで、各々がゴジラのアニメ化に可能性を見い出すようになる。

 

以下はオファーを快諾するに至った理由を説明する、 虚淵の言葉だ。

 

シン・ゴジラ』は絶対に、特撮として王道のゴジラを復活させるものになるだろう、と。であるならば、アニメの「GODZILLA」は「未来のために新しい可能性を開拓する企画」として考えることができるので、そこでこの企画を引き受ける意義を見つけることができたのです。
特撮とアニメの違いはどこにあるのか。特撮がもっとも効力を発揮するシチュエーションは、「現実の風景の中に非現実的なものが入り込んだ状況」です。まさに『シン・ゴジラ』(2016)はそういう特撮の最前線にある作品として作られていました。ではかつてサイエンス・フィクションの名のもとに「ゴジラ」シリーズの中で描かれていた、荒唐無稽と言ってもいいほどのスケール感や、宇宙人の存在といった要素はどうすればいいのか。僕はその部分を、アニメの「GODZILLA」が引き受けるべきだと考えたのです。
(『GODZILLA 怪獣惑星』劇場用パンフレットより) 

 

我々が暮らす日常に現れたゴジラを描くという点において、アニメは特撮に対して分が悪いが、よりSF的でフィクション度の高い世界におけるゴジラを描くのであれば、アニメに勝算がある。そう判断した虚淵が作り出したストーリーの原案は、シリーズ中最も壮大で非日常的な物語だった。

 

20世紀末より始まった怪獣の襲撃、そして2030年に出現したゴジラのとてつもない破壊によって文明社会を蹂躙された人類は、2048年、地球での生存を断念し、宇宙へと逃避。20年間の航行の末に帰郷するが、地球では2万年もの時間が経過しており、もはや彼らが知っている母星の姿はそこにはなかった。しかも、彼らを絶望の淵へとたたき落としたゴジラは絶命しておらず、今もなお、この世界の絶対的頂点であった。再び宇宙へ逃げ戻るか、それとも地上へ下りるのか。人類は選択を迫られる…。

 

この導入部の説明だけでも、本三部作があまりにも巨大なスケールを誇り、過去作のどれよりも陰鬱なストーリーであることが伝わるだろう。その前日譚を描く小説『GODZILLA 怪獣黙示録』『GODZILLA プロジェクト・メカゴジラ』についても、「怪獣と人類が全面戦争になったらどうなるのだろう…?」「ゴジラがいよいよ人類を滅亡させるに至るとしたら…?」といったファンの妄想をそのまま描き出したかのような、あるいは『ゴジラ FINAL WARS』(2004年)を悪夢と恐怖でブーストしたような、救いのない内容だった。

 

さらに驚くべきは、人類がゴジラによって宇宙へ追いやられる以前に、ビルサルド、エクシフという母星を失った異星人が地球に現れ、ゴジラ抹殺のために協力関係を築いている点だ。地球人を遥かに凌駕する科学力と知能を誇る彼ら異星人の援助があってもなお、人類はゴジラを倒すことができず、3種族はそのまま宇宙航行をともにすることになった。

 

こうしたSF色が濃厚なストーリーが異色であるアニメ『GODZILLA』三部作を、私は主人公の名前をとって“ハルオ三部作”と勝手に呼んでいる。というのも、本作はSF的設定が云々ということ以上に、ハルオ・サカキという人物の内面を描くための物語であった点が、最も重要でユニークであるからだ。一人の人間の精神的変遷や葛藤をこれだけ丹念に描いたゴジラ作品は、後にも先にもこの『GODZILLA』三部作だけである。

 

体高300mという史上最も巨大な本作のゴジラは、絵的にも物語的にも存在感がある。しかし実際のところ、その存在を描くこと自体はこの映画の主眼ではない。それよりも本作が重きを置いているのは、ゴジラとの戦いを通して思い悩む主人公ハルオの姿を、外的にも内的にも映し出すことである。瀬下監督の言葉を借りるならば、『GODZILLA』三部作はどこまでも「ストーリー・オブ・ハルオ」であり、ゴジラはある意味、彼の“背景”に徹しているといっても良い。

 

そうして本作は、ゴジラに対峙した人間の葛藤をスクリーンに活写することで、最終的に怪獣とは何なのか?、怪獣は人類にとって一体どんな存在なのか?という観念的問いを観客に投げかけてくる。つまり『GODZILLA』三部作は、怪獣そのものの描写ではなく、怪獣によって追いつめられた人間側のドラマを通して、その存在意味を観客に考えさせる怪獣哲学映画とでも呼ぶべきものであった。

 

↓続きはこちら

yuta-drago.hatenablog.com

 

[参考文献・参照サイト]

劇場用パンフレット

 

Gigazine

「GODZILLA 星を喰う者」虚淵玄・静野孔文・瀬下寛之鼎談インタビュー、あのラストはどのように生み出されたのか?

 

アニメ!アニメ!

「GODZILLA 怪獣惑星」は国道246号線沿いで起きていた? 瀬下監督が挑んだ国産3DCGアニメの集大成とは

 

怪獣王の新時代──2010年代のゴジラ快進撃⑤

f:id:yuta_drago:20210120224925j:plain

ゴジラ戦略会議(通称ゴジコン) 

ゴジラ映画が息を吹き返した2014年以降、東宝では同社が世界に誇るムービー・モンスターの価値を継続的に強化していこうとする動きが活発化する。その中心となったのが、レジェンダリーの『GODZILLA ゴジラ』の世界的成功を受けて発足した“ゴジラ戦略会議(通称ゴジコン)”だ。

 

その目的は、劇場作品に限らず、多角的な視点でゴジラというキャラクターを幅広い世代に向けて売り込んでいく機会を作り出すこと。本丸である長編映画の合間に、様々なイベントやグッズ、コラボレーションなどを打ち出し、より多くの人々がゴジラに触れ続けられる機会を創出していくことだった。

 

例えば、2015年新宿コマ劇場跡地に建設されたTOHOシネマズ新宿を含む商業施設・新宿東宝ビルには、8階部分に“ゴジラヘッド”と呼ばれるゴジラの頭部を再現した巨大オブジェを設置。歌舞伎町の新たなランドマークとして、ゴジラの顔が機能することとなった。

 

他にも、初代『ゴジラ』公開日である11月3日にその生誕を祝う“ゴジラ・フェス”の開催、初の東宝公式専門ショップ“ゴジラ・ストア”の開店、USJ4-Dアトラクション“ゴジラエヴァンゲリオン・ザ・リアル 4-D”、児童向けに開発された新キャラ”ちびゴジラ”…等々、実例は枚挙に暇がない。

 

それらゴジコンが実現した数々の企画の中でも、個人的に思い出深いのが2019年3月に実施された“第1回ゴジラ検定”である。

www.kentei-uketsuke.com


検定では初代『ゴジラ』や空前のヒットとなった『シン・ゴジラ』はもちろん、歴代のゴジラ作品から名シーン、個性的なキャラクター達のプロフィールさらには東宝カニックに関することまでゴジラファンなら知っておきたい様々な問題を出題します。

 

ゴジラについて一定のレベルの知識を有していることを、公式に認定してもらうことができる画期的な検定だった。

 

当時私は東京会場(高輪にある東海大学のキャンパス)にて中級の試験を受験。教室にはしっかりとスーツを着用した試験管がおり、大学入試さながらに不正等がないか厳重にチェック。受験する側もいたって真剣で、試験開始ギリギリまでテキストを読みこんでいた人が少なくなかったように記憶している。

 

そんな厳正な状況の中、まるで人生の岐路に立たせれたような緊張感が漂う中(大げさに言っています)、試験開始がアナウンスされ、問題用紙を開いた。

「Q1. 『ゴジラ』(1984)に登場するショッキラスは、ゴジラに寄生していた生物が放射能により突然変異したという設定だが、その生物とは次のうちどれか。」

 

人生の岐路に、ショッキラスが立っていた。このシュールな体験は、おそらく一生忘れないであろう。

 

受験後Twitterをのぞくと、問題の解釈を巡る議論が起こっていたりして、「お前ら、真面目か!」と思わず叫びそうになった。そんな熱くて真剣なゴジラファンの皆さんが、私は大好きである。そして、受験料・テキスト代・当日の交通費・グッズ代、すべて込みで“ゴジラ検定”に2万ほど貢いだ自分のこともほめてあげたい。

f:id:yuta_drago:20210412001811j:plain

参考:第1回ゴジラ検定中級の問題用紙と合格認定書

 

また、これはゴジコン案件なのかどうかわからないが、2018年から2019年にかけてゴジラをテーマにしたオーディションも開催された。東宝とAlphaBoat合同会社が共同で主宰した“GEMSTONEクリエイターズオーディション”は、「YouTubeSNS を活用した人材発掘・オーディションプロジェクト」を謳った企画で、その第1回目のテーマが「ゴジラの世界観にインスパイアされたオリジナル作品<映像(アニメ・実写・CG)・音楽・イラスト>」だったのだ。

 

この企画は運営面の不手際が非難されるなど、やや後味の悪い印象が否めないものとなったが、それでも確かな成果を残している。ゴジラの公式YouTubeチャンネルで配信されている怪獣人形劇『ゴジばん』は、“GEMSTONE”がきっかけとなり制作されたコンテンツのひとつだ。同シリーズで最も人気の高い回である「シン・オジ - 親戚のオジさんゴジラ」の巻は、2021年4月上旬時点で再生数217万回を突破。映画館の外においてゴジラの価値を高めるという点で、成功例とひとつだと言える。

www.youtube.com


こういった多種多様な形でゴジラのキャラクターとしての存在感を強めていこうとする東宝の動きが、2010年代後半の快進撃をブーストしたことは想像に難くない。映画製作の現場とはまた違った場所で、ゴジラを支えていこうと奮闘する人々の熱意がそこには溢れていた。

 

続きはこちら↓

yuta-drago.hatenablog.com

 


<参考サイト>

BANGER!!!
『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』公開記念!東宝の秘密組織<ゴジコン>のナゾに科楽特奏隊が迫る!


NIKKEI STYLE
東宝の命運握る「ゴジラ戦略会議」 映画以外にも展開


はたラボーパソナキャリア働くコト研究所ー
「Gからはじまるブランドと全部コラボしよう」 東宝「ゴジラ戦略会議」の知られざる試行錯誤

怪獣王の新時代──2010年代のゴジラ快進撃④

f:id:yuta_drago:20210120224925j:plain

 

シン・ゴジラ』#2

3月22日、NHKの番組『プロフェッショナル 仕事の流儀』で「庵野秀明スペシャル」が放送された。自身の命よりも作品を優先する仕事観、無尽蔵なこだわり、妥協を許さないストイックさ。その内容は多くの視聴者に衝撃を与え、SNSでも大きな話題となっていた。

 

番組は『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の製作背景に迫ったものだったが、ここで庵野が見せた作品に対する向き合い方は、『シン・ゴジラ』においても同じであっただろう。レイアウトの凝り方が尋常ではなく、「画面全体を1ピクセル上げてくれ」のような細かな要求は珍しくなかった──CGを手掛けた白組プロデューサーの井上浩正が『別冊映画秘宝 特撮秘宝vol.4』で語っているこのエピソードなどがその証左だ。

 

こういった度が過ぎる庵野のこだわりが、時に反感や混乱を現場に引き起こしていたことが、『ジ・アート・オブ・シン・ゴジラ』といったメイキング本等に記録されている。大げさに言えば、彼はゴジラが日本を蹂躙するがごとく、現場の秩序や平穏を乱していった。スタッフにとって、庵野は怪獣であり、理解し難い存在だった。

 

それは本人も自覚的であり、作業がルーティーンになることを防ぎ、それぞれのクリエイティビティを最大限に引き出すため、あえて嫌われ役を演じた面もあったようだ。そして、常に緊張感が漂う現場において庵野とスタッフ達の間を何とかつなぎとめていたのが、樋口だった。彼が緩衝剤となり、『シン・ゴジラ』の現場はギリギリのところで崩壊するのを免れていた。それもまた、何かが掛け違えば一瞬で崩れ落ちてしまいそうな、絶妙なバランスで成り立っている同作のゴジラの危うさと重なるところである。

 

スタッフ、キャストにとって『シン・ゴジラ』を作るというのは、終わりの見えない庵野の創造の旅に、必至で食らいついていく日々だったに違いない。そう考えると、彼らにとって本作の完成というのは、庵野という大怪獣に勝利した瞬間だったのかもしれない。

 

公開された映画は日本において、2014年の『GODZILLA ゴジラ』を凌ぐ驚異的な熱狂を巻き起こした。観客動員数は550万人を突破。これはシリーズ歴代5位の大記録である。

 

邦画シーンのど真ん中に、我らが怪獣王が鎮座した。こんな光景が見られるとは、少なくとも私は全く予想していなかった。これほどまで日本中がゴジラという存在に注目したことは、久しくなかったのだ。

 

その後、レジェンダリーのゴジラがシリーズ化したこともあってか、実写の国産ゴジラは作られていない。当然、東宝は『シン・ゴジラ』の次を考えているだろうし、秘密裏に進行している企画があっても何の不思議はない。

 

いずれにせよ、次にくる日本の実写ゴジラに立ちはだかるハードルは、ある意味で『シン・ゴジラ』よりも高いものかもしれない。

 

繰り返しになるが、『シン・ゴジラ』はシリーズの中に置いてみると、非常に異色な作品だ。つまりこの映画で初めてゴジラに熱狂した人々の多くは、過去の作品を見て同じように面白いと感じるかというと、決してそうではないだろう。

 

シン・ゴジラ』が獲得した観客達を、惹き付けられるもの。かつ、元々シリーズのファンだった人々も納得させられるもの。これから作られるゴジラ映画には、自ずとこれらの枷がはめられているように思う。もちろんそれに縛られる必要など全くないのだが、『シン・ゴジラ』が初代の呪縛から抜け出した一方で、それ以降の作品は『シン・ゴジラ』という存在を意識しないわけにはいけない。それは新たな呪縛となった。

 

だからこそ、一体どんな発想で次なる怪獣王の世界を描き出してくれるのか、楽しみで仕方がない。はたして、誰が庵野という大怪獣に挑むのか…?

 

↓続きの記事

yuta-drago.hatenablog.com