悠田ドラゴのAll-Out ATTACK!!

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『博士と狂人』と『1984年』:言語破壊の邪悪さを考える

パソコンやインターネットもない時代──想像するに、情報の検索・収集・共有が今よりも遥かに多くの労力と時間を要する作業であった時代に、あらゆる言葉のあらゆる意味や使い方を網羅する辞書を編むという作業は、途方もなく長い苦難の道であったことだろう。筆舌に尽くしがたい忍耐と情熱が注がれたに違いない。


映画『博士と狂人』は、そんな果てしない辞典づくりの道程を描いた一作だ。その困難を映し出すことが必ずしもこの映画の主眼ではないが、間違いなくその片鱗をフィルムに焼き付けた一作だと言える。


本作の舞台は19世紀後半のイギリス。オックスフォード英語大辞典(OED)の編纂主幹を任された異端の言語学者ジェームズ・マレーと、精神病院の中から彼の仕事に協力し、世界最大の英語辞典完成に大きく寄与した殺人犯ウィリアム・マイナーの交流を描いている。


マレーは「古語も新語も廃語も俗語も外来語も生粋の英語も含むすべての単語とその変遷を収録する」(パンフレットから引用)という、かつてない壮大なプロジェクトに取りかかっていた。言葉の“変遷”を記録するためには、当然過去の文献にあたり、ある言葉がある時代にどのような使い方をされていたのか、自分たちの目で確かめなくてはならない。


この大仕事を成し遂げるため、彼は市井の人々に協力を求め、数世紀前から現在にいたるまでのあらゆる単語の用例(書物からの引用)を収集していく。それに必要な用例の数は言うまでもなく膨大で、マレーの辞書には183万もの引用文が収録されたという。それはあくまで最終的に収録された数であり、マレーたちが精査した用例の数はその倍どろこではないだろう。これだけとってみても、OEDの編纂がいかに地道で途方もない作業であったかが窺い知れる。


ここで、ジョージ・オーウェルの小説『一九八四年』を思い出してみたい。


ビッグ・ブラザーを首長とする<党>によって支配された巨大国家オセアニア。そこでは日々、<党>のドクトリンに背く思考犯罪者たちが“思考警察”の手によって拷問と絶望が巣食う“愛情省”へと送られ、<党>にとって都合の悪いありとあらゆる記録が役人によって改竄され続けていた。


この暗澹たる小説の世界に、主人公の友人であるサイムという人物が登場する。彼の仕事は、<党>が従来の英語に代わって普及させようとしている新たな言語体系ニュースピーク(Newspeak)の辞典の編集だ。


辞書を作るという点ではマレーもサイムも同じ仕事をしていると言えるが、その過程では全く正反対のことが為されている。というのも、サイムがやっていることは単語の多様な意味や用法を包括的に収集することではなく、<党>の支配において無駄だと判断された単語(とその意味)を抹消していくことだからだ。作中で彼は、次のように自分の仕事を説明している。

 

おそらく君はわれわれの主たる職務が新語の発明だと思っているだろう。ところがどっこい、われわれはことばを破壊しているんだ──何十、何百という単語を、毎日のようにね。─中略─言うまでもなく最大の無駄が見られるのは動詞と形容詞だが、名詞にも抹消すべきものが何百かはあるね。無駄なのは同義語ばかりじゃない。反義語だって無駄だ。つまるところ、ある単語の反対の意味を持つだけの単語にどんな存在意義があるというんだ。
『一九八四年』(訳:高橋和久早川書房刊)より

 


サイムの考え、いや、<党>の考えによれば、例えば「悪い」という形容詞は「良い」の反義語なのだから、「非良い」という言い方で代替でき、「素晴らしい」や「申し分ない」といった表現も、「超良い」で事足りる。したがって、「悪い」「素晴らしい」「申し分ない」といった形容詞は無駄であり、「良い」だけで表現することが可能だという。


また彼らは、言葉の持つ多彩なニュアンスをも奪い取り、それぞれが使われるシチュエーションを非常に限定したものにしようとしていた。その目的は、サイムの言葉ではっきりと記されている。

 

ニュースピークの目的は挙げて思考の範囲を狭めることにあるんだ。最終的には<思考犯罪>が文字通り不可能になるはずだ。何しろ思考を表現することばがなくなるわけだから。


<党>は言語を破壊することで、人々の考える力を削ぎ、思考を制約することで、反逆・異端・逸脱を根本的に不可能なものとし、その支配を確固たるものにしようとしていた。このように『一九八四年』における辞書編纂という仕事は、『博士と狂人』におけるそれとは目的からして180度違っている。


本来言葉とは、曖昧で複雑で面倒なものに違いない。なぜなら、それを使う我々人間が曖昧で複雑で面倒な存在であるからだ。人間の集まった社会も然りである。そんな難解極まりないものを表す言葉が、単純でいいはずがない。


だからこそマレーたちは、世界を正しく理解するための手助けとして、あらゆる言葉の事細かなニュアンスを集め、その変遷の歴史も含めて収録した大辞典を編纂しようとしていた。ところが、『一九八四年』の<党>はそういった言葉の多義性や歴史を消し去り、自身にとって都合の傀儡を作るために、意味を削ぎ落したニュースピークを作ろうとしていた。


この行為の野蛮さ、邪悪さ、醜悪さというのは、『博士と狂人』を経るとより鮮明になる。


映画の中盤、マイナーはこんなことを言う。

 

言葉の翼があれば、世界の果てまでだって飛んで行ける。


これはひとつの真理だ。言葉によって我々は自由に考え、自由に行動し、自由に物事を見ることができる。我々の言葉を壊したり制限しようとしたりするものがあるならば、それは我々の自由に対する冒涜だ。だから、ニュースピーク的な何かを絶対に許してはならない。『博士と狂人』を観て、そう強く思った。

 

DOWN WITH BIG BROTHER
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英書『1984』より

 

本記事は2020年12月7日にnoteで公開したものです。