悠田ドラゴのAll-Out ATTACK!!

悠田ドラゴのAll-Out ATTACK!!

カテゴリーをご覧になれば、どんなブログかだいたい察しがつくかと思います。

ゴジラのスクリーン映えする背ビレ ベスト5

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前回は「ゴジラ映画の記憶に残る悪役ベスト5」と題して『VSビオランテ』の工作員SSS9や『VSキングギドラ』の未来人ウィルソンなんかをご紹介したわけですが、今回はゴジラのある部位にランキングをつけたいなと思っております。

 

彼の背中に生えている、かっこいいものと言えば背ビレですね。

 

筋肉のないシュワルツェネッガーなんて想像できないのと同じように、背ビレの生えていないゴジラゴジラと認めるのは難しい。彼をゴジラたらしめている重要なパーツであります。

 

初代ゴジラをデザインするにあたっては恐竜ステゴザウルスの背ビレがモチーフとなったけですが、その形状はシリーズが回を重ねるごとにアレンジが加えられていき、今や『ブレードランナー』のヴァージョン違い並みにヴァラエティ豊かです。

 

ただ最低限のルールみたいなものもあって、配列は3列(5列に見えるものもある)で真ん中の列の背ビレが左右よりも飛び抜けて大きい(後述しますがエメゴジは例外)、という点はだいたい共通しています。

 

その役割は、文献によっては体内エネルギーの調節弁みたいに説明されており(例えば『ゴジラ1954-1999超全集』では「熱線放射時の余剰エネルギーを解放する放電ビレ」という記述があります)、たしかに一番理にかなっている設定かなと思います。ちょろっとググってみると、元ネタのステゴザウルスの背ビレも、体温調節の役割を担っていたという説が有力だそうです。

 

あとは単純に、装飾物としての役割も大きいですよね。サイや鹿の角みたいに、生き物としての強さを象徴しているようにも思えるし、男根的シンボルといっても良いかもしれない。

 

前置きが冗長になっちゃいましたが、ではでは本題にいきたいと思います。

 

ゴジラのスクリーン映えする背ビレベスト5!

 


第5位 ミレゴジの背ビレ


ゴジラ2000ミレニアム』『ゴジラ×メガギラス』
造形:MONSTERS(造形プロデューサー:若狭新一)

 

シリーズ史上、最も主張の強い背ビレと言えるのがミレゴジです。とにかくデカい!トゲトゲ! ソフビを正面から見ると、頭の上からはみ出てちょんまげみたいに見えるくらい主張が強いんですよ、彼の背ビレは。

 

「VSシリーズとは一線を画する新しいゴジラを」ということでプロデューサーの富山省吾氏、監督の大河原孝夫氏、特殊技術の鈴木健二氏らが侃々諤々と議論を交わしていた製作初期から、「大きな背ビレ」はひとつのキーワードになっていたそうな。そこで膨らんだイメージをデザイナーの西川伸司氏や造形の若狭新一氏が具現化したのがこのミレゴジの、剣のごとき背ビレであります。実際『×メガギラス』では、背ビレスラッシュ(非公式)をトンボ大怪獣にお見舞いしておりました。

 

配色も独特で、基本的にゴジラの背ビレは根元が黒(表皮色)で先端側が白なんですが、ミレゴジのは白ではなく紫っぽい。当初はもっとオーソドックスな色味だったのが、「これでは物足りない」という鈴木氏の意向でパールピンクに変更。結果、メラメラと燃え盛る炎のようなルックスの、文字通り先鋭的な背ビレが完成したのでした。

 

第4位 キンゴジの背ビレ


キングコング対ゴジラ
造形:利光貞三ら東宝造形スタッフ

 

キンゴジは『ゴジラ』『ゴジラの逆襲』の造形と比べて、耳がなくなり足の指の数が4本から3本に減った点が大きな変更ですが、背ビレのゴツさが増長されているのも見逃せないポイントです。

 

前2作よりも厚みが増し、やや大きめになった印象の背ビレは、キングコングと組んず解れつの激闘を繰り広げる中でユッサユッサとダイナミックに躍動。背ビレファンにはたまりません。

 

また、本作はシリーズ初のカラー作品であり、熱線を吐くときに背ビレが青白く光るという演出を初めて確認することができた1本でもあります。その後VSシリーズまで連綿と受け継がれてきた、熱線発射時のイメージがこの時確立されたわけですね。そういったゴジラ史観的な重要性も踏まえての4位です。

 

第3位 エメゴジの背ビレ


ゴジラ』(1998年トライスター版)
デザイン:パトリック・タトプロス

 

言うまでもなく本家東宝版とはかけ離れたデザインのエメゴジですが、背ビレも超独特。日本のゴジラは、一番大きな背ビレが中央列の2、3番目に配置されるのが基本なんですが、エメゴジは肩の後ろあたりにある左右の背ビレが突出してデカいんです。そのフォルムが私は凄く好きで、本当にエメゴジの造形はクールだと思うんですよね。

 

この点に関しては、デザイン担当のパトリックさんがちゃんとコンセプトを持って作っておられます。

 

実在する動物ではたいてい後向きになっている背ビレを、攻撃的に見えるように前向きにした。「形もとがったものにしたんだ」とタトプロス。「背ビレには層があって根元の層は500もあるけれど、先の方は層が少なくなっている。木の年輪のような感じだ。そしていちばん大きな背ビレを肩甲骨の上に作った。ゴジラが腕を動かした時に動きが大きく見えるようにね」。(劇場パンフレットより)

 

以前、エメゴジの応援記事も書いとりますので、ぜひこちらも見てみてください。

 

第2位 デスゴジの背ビレ


ゴジラVSデストロイア
造形:小林知己ら東宝映像美術スタッフ

 

ゴジラ死す」という衝撃的惹句でお馴染み『VSデストロイア』のゴジラは、体内の核分裂を制御できなくなり、爆発寸前という生ける核爆弾状態。その身体は所々赤く発光し、背ビレも真っ赤っかです。

 

映画の終盤、体内エネルギーの暴走でもの凄い光線を放出しながら、背ビレから溶けていくシーンがありますけれども、彼の強大さのシンボルが焼失していくというのは非常にショッキングでした。

 

本作の撮影でメインとなったゴジラ・スーツは前作『VSスペースゴジラ』の通称モゲゴジ(シリーズ最大級の2m超え!)を改良したものですが、最もデカい背ビレの位置がひとつ分上に変更されています。それによってやや重心が前に置かれるというか、より攻めな感じが強調されて、VSシリーズでは一番好きですね。

 

当時の造形スタッフの一人である贄田直樹氏によると、スーツには「首の細かい裂け目のムギ球も含めると、全身3000個ほど」(ホビージャパンゴジラVSデストロイア コンプリーション』より)の電飾が施されているそうです。重さは120〜130kgに及んだそうな。

 

いろんな意味で最大級のデスゴジは、その背ビレの美しさも絶品なのでした。

 

第1位 GMKゴジラの背ビレ


ゴジラモスラキングギドラ 大怪獣総攻撃』
造形:Vi・SHOP(代表:品田冬樹

 

出ました! 1位は白目でお馴染みのGMKゴジラ
(GMKの白目については、こちらもご一読ください)

 

平成ガメラのレギオンやイリスといった至高の怪獣造形で知られる品田冬樹氏の手掛けた唯一のゴジラですが、この背ビレは悶絶級に最高です。

 

本作のゴジラ初登場シーンは、原子力潜水艦が沈没した海底でバカでかい何かが目撃されるところですが、そこでフィーチュアされているのが他ならぬ背ビレ。青白く発光するもの凄くデカい背ビレが暗い海底を照らしながら、のっそりと移動していく様は、もう歴代ベストの背ビレといって差し支えないでしょう。

 

ここを見て「これは間違いなくヤバいやつだ!」と、公開当時中坊だった私は劇場で震えましたよ。

 

ヘラジカの角を意識したという形状は、VSシリーズに近いっちゃ近いんですけど、それよりもどこか歪で、面白いシェイプです。この歪さが独特な不気味さを強調しているし、何と言ってもデカくて、すげえ強そうなんですね。

 

個人的にゴジラを後方斜めから煽り気味にとらえたショットが好きなんですけど、GMKゴジラはそのアングルで撮った時に背ビレがめちゃくちゃ映えるんです。ということで、第1位!

 

ちなみに、今回資料として重宝したホビージャパン刊の『ゴジラ造形写真集』は、カバーのそでに歴代ゴジラの背ビレ写真が掲載されていて、背ビレファンには非常に熱い一冊であるということも、最後にお伝えしておきたいと思います。

ゴジラ映画の記憶に残る悪役ベスト5 ─人間・宇宙人・海底人編─

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最近『ゴジラVSコング』まわりが、にわかに騒がしくなってきてるじゃないですか。
全米公開が3月に前倒しされたり、ティーザーにもほどがある小出し映像が解禁されたり。(小出しが過ぎる!)

 

ただですね、ゴジラキングコングが半世紀以上ぶりにタイマンを張るという驚天動地の出来事が起きようとしているのに、いまいち気分が昂らない。
それはコロナ禍という異常事態の中で本当に予定通り公開されるのか疑心暗鬼になっていることもあるし、個人的には前作『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』の内容に対していまだモヤモヤした感情が尾を引いているということもある。

 

それでも、安室ちゃんのラスト・ステージを死に物狂いで盛り上げたアムラーばりに、ゴジラーたる者、この戦後最大級のビッグマッチを盛り下げるわけにはいかないじゃないですか。

 

というわけで、ゴジラ魂を無理矢理にでも奮い立たせるべく、こんなことを始めたいと思います。

 

ゴジラの●×ランキング ベスト5!

 

ラジオ番組の『アトロク』でお馴染み「ひとり総選挙」的な形で、超独りよがりなゴジラにまつわるランキングを、勝手に発表していきますよ。

 

第1回は………ゴジラ映画の記憶に残る悪役ベスト5 ─人間・宇宙人・海底人編─

 

人間・宇宙人・海底人編ですのでね。怪獣は出てきません。
それでは、ゴジラ映画に登場した、身の毛もよだつスーパー・ヴィランのトップ5をご紹介しましょう。

 


第5位 ブラックホール第3惑星人

登場作品『ゴジラ対メカゴジラ』『メカゴジラの逆襲

 

もう名前からして最高ですよ。ブラックホール第3惑星人! よく考えるとブラックホールの第3惑星ってどこよ?と意味がわからないんですけど、何せブラックホールですからね。人智を遥かにビヨンドした存在であるわけで、理解しようとするのがおこがましいのです。

 

そして、その正体も衝撃的。顔がめちゃくちゃゴリラ! あまりにも『猿の惑星』オマージュが全開で、ビックリしちゃいましたね。

 

そのインパクトだけで5位です。


第4位 未来人ウィルソン

登場作品『ゴジラVSキングギドラ

 

なぜだかゴジラが現れなくなり、とんでもない経済大国に発展して調子こいた日本を、「けしからん!」と嫉妬心を爆発させて未来からこらしめるためにやってきた、地球均等環境会議という変な組織のメンバーです。非常に難しい役所ですが、チャック・ウィルソンさんが好演しています。

 

その計画もスケールがデカく、太平洋戦争中にタイムスリップして、後に核実験の影響でゴジラと化すゴジラザウルスの代わりに未来の可愛いペット用動物:ドラットちゃんを3匹ラゴス島に残し、ゴジラ以上の怪獣キングギドラを生み出して日本を滅ぼそう!ですよ。

 

もっとシンプルで上手くいきそうな方法がわんさかありそうな気もしますが、きっと気のせいでしょう。

 

とにかく、こんな夢のある計画をどや顔で実行してみせたウィルソンの胆力(と狂気)には、頭が下がります。


第3位 シートピア海底王国 司令官アントニオ

登場作品『ゴジラ対メガロ

 

核実験で平和な生活をめちゃくちゃにされたことで怒り心頭に発し、地上人との戦いを決意した海底王国の指導者。両手にドリルがくっついた巨大カブト虫:メガロを送り込み、人類への攻撃を仕掛けます。

 

彼らのシートピア海底王国はビジュアルが強烈です。特に古代ローマの人みたいな服装のアントニオの面前で、白い水着(下着?)にシースルーのワンピース(?)という、夜の街をプンプン臭わせるエッチな格好の(なぜかアジア系の顔立ちの)女性陣が変な踊りを舞っている様はザ・カオス。きっと、水爆で国土を荒らされる前は、毎日ウハウハな楽しい生活を送っていたのでしょう。そりゃあ怒るはずだ!

 

そもそも、彼らは安住の地を水爆で破壊されたわけで、哀れな被害者なわけですよ。(だったら日本じゃなくアメリカとかフランスとかを攻撃しろ!って話ですが)となると、人類は彼らに対して誠意を見せるべきでしょう。

 

それなのに、エッチな格好をしたお姉さん達が変な踊りで崇めていた守護神のメガロはガイガンともども、なぜだか助太刀にやってきゴジラジェットジャガーにボコボコにされてしまって…。あまりに不憫なので3位です。


第2位 大久保博士

登場作品『ゴジラVSスペースゴジラ

 

超能力少女:三枝未希さんのテレパシーを使って、ゴジラを意のままに操ろうとしたマッド・サイエンティスト。昨年、大久保を演じた斎藤洋介さんが鬼籍に入った時、哀悼の意をこめて『VSスペースゴジラ』を見直したんですが、やっぱり彼の怪演があったからこそのスペースゴジラだと再認識しましたね。

 

 

このツイートにも書いたのですが、登場時点で何だか挙動がおかしいんですよ。この腹に一物抱えた感じがまた良い。

 

そして何と言っても、大久保のマッドがマックスに達するのが死に際ですね。
ゴジラ乗っ取り作戦は失敗、スペースゴジラが発する強力な電磁波の影響で大切なコンピュータもボロボロという、二進も三進もいかない状況に追い込まれ、ここぞとばかりに大久保は発狂します。

 

ヘンテコなゴーグルみたいなのをかけて、パソコンにまたがりながら「どうしてなんだあ!」と泣き叫ぶ様は、誰しも心が揺さぶられるでしょう。

 

こういう、死に際にそれまでのキャラ(特に冷笑系な感じのキャラ)が崩壊する映画の場面が個人的には好物でして、他にも『ガメラ3 邪神<イリス>覚醒』の手塚とおるさんが演じた倉田とか、『プロメテウス』のシャーリーズ・セロンが宇宙船の下敷きになるとことか、好きなシーンはたくさんあります。そんな中でも、大久保の壊れっぷりは最高でした。


第1位 SSS9

登場作品『ゴジラVSビオランテ

 

G細胞や抗核バクテリアを狙って、『呪怨』の俊雄君ばりに場所を問わずひょっこり出現するサラジア共和国の工作員。口ひげにオールバックのヘア、サングラスという、いかにもアレな風貌をした男です。『ナイトホークス』の時のスタローンっぽい、といったら伝わりますかね?(この時のスタローンはオールバックじゃないですけどね)

 

だいたいの銃撃シーンにかかわっている、本作のガン・アクション担当みたいな人です。

 

彼がなぜ1位かというと、その昔、まだガキんちょだった頃の私は彼を、ゴジラの化身だと勘違いしていたんですね。

 

意味がわからないと思いますが、『VSビオランテ』の終盤って、ゴジラが抗核バクテリアをくらって活動を停止した後、SSS9と主人公の取っ組み合いになるじゃないですか。で、結局SSS9が人工稲妻装置で雲散霧消した後、ゴジラが復活するわけですけど、ゴジラ→SSS9→ゴジラという流れで、怪獣と人の姿を行き来していると、幼い私は解釈したわけです(当時は何でSSS9が消えたのか、意味がわからなかったですしね)。

 

説明しても意味がわからないと思いますが、そんな思い入れもあり1位となりました。

 

ちなみにSSS9を演じたマンジョット・ベディさんはその後、何だかよくわからないけど凄そうな会社の代表取締役をやっていたり、クリエイティブディレクターとか何だかよくわからないけどいろいろな肩書きがあったり、何だかよくわからないけど凄い人になっています。


以上、ゴジラ映画の記憶に残る悪役ベスト5 ─人間・宇宙人・海底人編─ でした!
次回のテーマは、ゴジラ映画の背びれベスト5の予定です。

 

愛しのトラウマ映画列伝:ヴァーホーヴェンとスピルバーグ

 

トータル・リコール』と『スターシップ・トゥルーパーズ

見渡す限り岩しか見当たらない荒涼とした場所に、宇宙服をまとった2人の男女が立っている。
そこは地球ではない、どこかの星の赤い地表だった。
2人はおもむろに手を握り、見つめ合い、静かに微笑んだ。
そして、また歩を進め出したのもつかの間、男の方が足を踏み外し、崖を転がり落ちていく。
彼は顔面から岩に衝突し、ヘルメットが割れ、外気に晒されてしまった。
気圧の急激な変化により、男の顔はみるみる変形し、いまにも目玉が飛び出しそうになっている。
呻吟する声が、何もない大地に響き渡る…。


何歳の時かは判然としないが、おそらく小学生の頃だったと思う。
ある夜、テレビを点けていたら、このような出だしの映画に遭遇した。
そして、苦悶する男の目玉が飛び出し始めた時点で、私は恐怖のあまり、すかさずテレビを消した。
今のはいったい何だ。自分はいったい、何を見てしまったんだ…。


それからというもの、しばらくの間、この映像を思い出すのも嫌になり、あのときテレビを点けていたことを後悔した。
それからしばらく経ち、おそらく高校生か大学生の頃、ある1本の映画を見た。


トータル・リコール
アーノルド・シュワルツェネッガー主演、ポール・ヴァーホーヴェン監督という、とてつもない個性を持った2人が生み出したアクション超大作である。
そのオープニングに、あの悪夢のような映像が現れた。
この時はじめて、あの悪夢が『トータル・リコール』という映画の一部であることを知った。


無論、映画は最高だった。
火星での目玉飛び出し描写を始めとする、天才アーティスト、ロブ・ボッティンが手がけた特殊メイクによる驚異的なショック映像の数々に、私はもはや拒否反応を示すことなく、むしろその虜になっていった。
それからというもの、ロブが参加した『遊星からの物体X』や『ハウリング』など、造形アーティストが生み出す狂気の映画を次々と漁るようになる。
トータル・リコール』で植え付けられた恐怖の種は、時を経て、奇怪な世界を求める底なしの好奇心となって開花したのだった。


同じような体験──当初は拒絶していた映画から、後になって思いもよらない影響を受けるようになる体験は、他にもある。
たとえば、同じくヴァーホーヴェンがメガホンをとった、昆虫型エイリアンとの死闘を描くSFアクションスターシップ・トゥルーパーズである。

記憶では中学くらいの時にテレビで観たつもりだったが、調べてみると地上波初放送は2004年なので、高校1年生の時だった。


この作品の何が嫌だったかといえば、終盤ザンダーという兵士が敵の司令塔であるブレイン・バグに惨殺される場面だ。
彼は頭に管のようなものをブッ刺され、脳髄を吸引され絶命する。まるでタピオカをストローでチューチューするかのように、自分の脳みそを虫に吸われる。こんな厭な死に方があるだろうか。
しかもヴァーホーヴェンは、脳髄がブレイン・バグの口に向かって半透明の管の中を移動していく様や、吸引されるに従って目玉が脳天側に引っぱられ白目をむくところなど、彼の死に至る過程を必要以上の丁寧さで見せてくる。はっきり言って鬼畜である。
劇中の至るところで人間の身体がすっ飛ぶ残酷描写てんこ盛りの『スターシップ・トゥルーパーズ』だが、中でもザンダーの死に様が嫌すぎて、本作はしばらくの間「見なきゃよかった」枠に収まることとなった。


ただ、『スターシップ・トゥルーパーズ』を当初拒絶した理由はそれだけではない。本作は、主人公たち軍隊の勇ましい姿を映し出し、彼らのような兵士をもっと必要としている、と呼びかけ、「THEY'LL KEEP FIGHTING AND THEY'LL WIN」という力強いメッセージとともに幕を閉じる。
この軍国主義を強く打ち出したような終わり方を、当時私は極めて不快に感じた。
露骨に「戦争しようぜ!」と投げかけるようなフィナーレに、怒りすら覚えたほどだった。


だが、本作はもともと全体主義国家のプロパガンダ映画のパロディを意図して作られている。
つまり、表層的に捉えれば浅はかな戦意高揚映画として見えるが(それでもアクション映画として非常に優れいている、という点は一旦置いておく)、パロディとしての構造を含めて捉え直すと、『スターシップ・トゥルーパーズ』はファシズムへの痛烈な皮肉になっているのである。
ヴァーホーヴェンは、「こんなバカな国家のために戦って死にたいのか? そんな世界に生きたいのか?」と観客に問うたのだ。
その本質に気がつかされたとき、自分の不明を恥じるとともに、視点を変えることで映画の姿がまるで違って見えることを教わり、映画の多面性に触れたような気がして何だか嬉しかった。

 

ジョーズ』と『プライベート・ライアン

人が圧倒的な暴力を前に、心が折れ、我を失い、屈していく。映画を見ていると、こうした場面に遭遇することがままある。
たとえば、『ロボコップ』で主人公マーフィが殉職する(直前の)シーンがそれに当たる。武装したワルどもに囲まれ、絶体絶命の状況に追い込まれてもなお毅然とした態度を貫くマーフィ。そんな彼の右手を、敵のボスであるクラレンスが銃で吹き飛ばしてしまう。手首から先がなくなった右腕を呆然と見つめ、マーフィーは力なくトボトボと歩き出す。それまで彼が放っていた威厳や尊厳といったものが雲散霧消し、抵抗する気力すらなく、ただただ悪党の放つ弾丸を浴びせられ、ぼろ切れのように死んでいく。
この場面は、何度みても戦慄してしまう。それは、マーフィの強い意思が悪意の塊によって砕かれたことが、あまりにも鮮明に描かれているからだ。
映画において、人間が折れる場面というのは、私にとって大きな恐怖と苦痛を伴う瞬間でもある。


こういった描写が怖いとはじめて明確に感じたのは、おそらくジョーズだろう。
物語のクライマックス、漁師のクイントが船に乗り上げてきた巨大ザメに足から飲み込まれていくあの有名な場面。
生きたままサメに喰われるという残酷さが恐ろしいのは言わずもがなだが、それ以上にこの場面は、主人公のブロディやフーパー以上に力強くパワーに溢れたクイントという男の生命が、いとも簡単に終わってしまったその唐突な死があまりにも怖い。
サメにとって最も脅威であったはずの人間が、その巨大な暴力に破れ、身体を噛み砕かれる。
あれほど冷静に戦っていたクイントは今や完全に取り乱し、できることと言えばただジタバタして断末魔の叫びをあげることくらい。
結局、彼はなす術もなく、自身の血で赤く染まった海へと引きずり込まれてしまった。
これが、私にとってはじめて体験した、スティーブン・スピルバーグ映画というトラウマである。


彼の映画では、他にも『宇宙戦争』や『ジュラシック・パーク』など、何度か恐ろしい体験をしている。
その中でも、『ジョーズ』と並んで強烈なショックを受けたのが、プライベート・ライアンだった。

第二次世界大戦西部戦線における阿鼻叫喚の戦場を克明に再現し、戦争映画の歴史を変え、分水嶺となった傑作だ。
冒頭のノルマンディ上陸作戦の残虐描写があまりにも有名で、言うまでもなくそのシークエンスにはえも言われぬ衝撃を受けた。


ただ、この映画が私にとってのトラウマになった要因は、終盤の市街地決戦での一幕にある。
主要登場人物のひとりであるメリッシュが建物内でドイツ兵と格闘した末、胸にナイフを押し込まれ命を落とす場面。
ゆっくり、ゆっくりとナイフがメリッシュの胸部に入っていき、やがて急所に達するまでの数秒間は、消しゴムでこすって字が薄くなっていくかのように、人命が少しずつ静かに削られていく様があまりにも生々しく、非常にショッキングだった。
それだけでなく、この場面にはもうひとつのトラウマ要因がある。
主人公たちの部隊で最も若く、闘争心に欠けた男アパム。彼はメリッシュが窮地に陥っていることを悟りながら、そして十分な武器を手にしているにもかかわらず、戦闘に参加することを逡巡していた。
彼がめそめそせず、とっととメリッシュの元へ駆けつけドイツ兵を撃ち殺していれば、彼は助かっただろう。しかし、アパムにはそれができなかった。彼はただ、怯えていただけで、メイリッシュを見殺しにしてしまったばかりか、仲間の命を奪ったドイツ兵が現れると降伏のポーズを示し、そのまま行かせてしまう。


客観的に見れば、彼は臆病者、卑怯者といった誹りを免れられないであろう。
しかし、私にはどうしてもアパムを責めることはできない。もし自分が彼と同じ立場にあったなら、きっと同じように物陰に隠れることしかできなかっただろうと思うから。
恐怖のあまりすくみ上り、失禁すらしてしまうかもしれない。
あれほどの極限状態に置かれたとき、自分の勇気や意思など、いとも簡単に挫けてしまう。
そう思うと、この場面は映画を見てから時間が経てば経つほど、より恐ろしくなっていった。
戦争という冷徹な暴力を前に、何もできず仲間を見殺してにしてしまうという体験を、アパムという人物を通して私は経験してしまったのだと思う。
その恐怖は、映画を見てから20年ほど経った今もなお、心の深いところに巣食っている。

BENNETT ベネット(原作『コマンドー』)

序章:船出


とある港。そこに停泊していている一隻の漁船に向かって歩いている男がいた。
名をベネットという。
彼は船に乗り込み、水平線を眺めながら、昔を思い出していた。血なまぐさいあの日々を。
彼はジョン・メイトリクス大佐率いるコマンドー部隊の一員だった。
そこでは戦いと訓練に明け暮れ、暴力と死にまみれた日々を送っていた。
翻って、今の俺はどうだろう。ベネットは考えた。


メイトリクスに部隊を追放されてからというものの、俺はすっかり腐ってしまった。漁師をやって糊口を凌ぐ毎日は、あの日々に比べてなんて乾いているのだろう。
ベネットは確信していた。殺し合いのない世界など、自分にとって虚構に過ぎない。メイトリクスと過ごした戦場こそ、俺のいるべき場所なのだと。


こんなクソみたいな日々に、決着をつけねばならない。
そう、いまこの時をもって、俺は戦場に戻るのだ。メイトリクスのもとへと。
ベネットは、船を海に向かって発進させた。その姿を港から見守る一人の黒人がいた。その男はおもむろに何かの装置を取り出すと、ゆっくりとスイッチを押した。
ベネットの船は破裂し、たちまち海の藻くずと化した。

 

BENNETT ベネット


第1章:トリック

その数週間前、ベネットのもとへある男達がやってきた。彼らの雇い主を聞いてベネットは驚いた。
アリアス将軍。南米にあるバル・ベルデ共和国をかつて支配していた独裁者だ。メイトリクスによってアリアスの政権は転覆し、今はベラスケス大統領が君臨している。
アリアスの手下は、高級車を難なく買えるくらいの現金を差し出し、ある計画について説明し出した。アリアスは、メイトリクスを使ってベラスケスを殺し、再び支配者の座に返り咲こうとしていた。その計画には、ベネットの協力が不可欠だったのである。
やつの計画の第一段階は、メイトリクスの居場所を突き止めることだ。というのも、メイトリクスの部隊は解散した後、それぞれ新しい身分と職業を与えられ、それまでとは真逆の人生を生きていた。彼らを八つ裂きにしたいほど恨んでいるかつての敵たちから、報復を受けないための手段だった。


ベネットは何人かの情報は握っていたけれど、肝心のメイトリクスの住処などつゆも知らない。
そこで、アリアスとベネットは、メイトリクスを最強の軍人へと育てあげたカービー将軍に、目的の場所へ案内してもらうことにした。かつてのコマンドー部隊の面々を殺害し、メイトリクスの身にも危険が迫っていると悟らせることによって…。


グリーンベレーのクックが、最初に2人を葬った。ひとりはゴミ収集車でおびき寄せて撃ち殺し、もうひとりはキャディラックで轢き殺した。元特殊部隊の人間というのが疑わしいほど、あっけない死に様であった。
さて、メイトリクスのもとへたどり着くには、もうひとり死ななければならない人間がいる。
ベネットだ。


もちろん、ベネットはこの計画のために命を差し出すつもりは毛頭ないし、アリアスとしてもメイトリクスへの怨念をたぎらせる貴重な殺人マシンを失うわけにはいかなかった。
だから、彼らは”トリック”を使うことにした。
ベネットの乗った漁船が爆破されたという知らせが軍にも届き、いよいよカービー将軍が動き出した。かつての特殊部隊にいた男達が、次々と殺されている。彼らの情報が、何者かによって漏れ出ている。次に狙われるのは…メイトリクスだ。
カービーの乗ったヘリは、アリアスの思惑通り、山あいにある一軒の家へと向かった。そこでは、かつて戦場で鬼のような戦いぶりを見せていた軍人が、一人娘と穏やかな生活を送っていた。


ついにアリアスの毒牙は、メイトリクスを捕捉したのである。
カービーがメイトリクスのもとを立ち去るタイミングを見計らって、アリアスの部隊が奇襲をかけた。そして娘を誘拐し、メイトリクスをおびき出すことに成功する。
カーチェイスの末、メイトリクスの車は転倒し、脱出してきた彼を数人がかりで殴り倒した。
地べたに仰向けになったメイトリクスは、彼をのぞきこむ顔を見て仰天した。
死んだはずのベネットが、不適な笑みを浮かべて立っていたからだ。
「ベネット…お前は…」
「死んだと?」
狐につままれたようなメイトリクスの表情をながめながら、ベネットは一晩寝ずに考えて思いついた、取って置きのフレーズを放った。
「残念だったな、トリックだよ」
ベネットの銃から放たれた矢が、メイトリクスの意識を即座に奪った。


2人はコマンドー部隊の上司と部下だったけれど、トレーニング中はその関係を超え、ただのホモ・サピエンス同士として激しくぶつかり合った。それは、男と男のピュアなつき合いだった。
汗にまみれたあの日々を、バックミラーに映るメイトリクスの寝顔をながめながらベネットは思い返していた。
あれほど血の滾るような日々は、他になかった。
だが、いつの間にかメイトリクスは俺を憎むようになった。
俺が殺し過ぎたからだ。
俺にしてみれば、やつの教えを忠実に守り、ひたすら実践しただけだったのだが…。
まあ、しかし、たしかに殺しは楽しかった。
メイトリクスとの訓練と同等か、あるいはそれ以上に俺を魅了した。
だから、メイトリクスは俺を部隊から追放した。
それ以来、俺はまるで抜け殻のような日々を送ることになったんだ。


第2章:I'll be back, Bennett

どこか、見知らぬ倉庫のような場所でメイトリクスは目を覚ました。
辺りを見渡すと、ベネットを含んだ数人の男達が、彼を縛り付けた台を囲んでいる。
「麻酔弾だよ」
ベネットがわかりやすく説明してくれた。
「私を憶えているか、大佐」
続いて口を開いた男をメイトリクスはにらみつけた。アリアス将軍だった。
「忘れるものか、このゲス野郎」
アリアスはメイトリクスの悪態を気にすることなく、自身の壮大な計画について語り始めた。
メイトリクスをバル・ベルデへ単身乗り込ませ、ベラスケス大統領を暗殺させる。もし、勝手な行動を取ったならば、娘をバラバラにして送り届ける。
シンプル。実にシンプルでわかりやすい計画だった。


作戦は次の第2段階に移った。
ベネットの仕事は、メイトリクスとその見張り役であるサリー、エンリケスの3人を車で空港に送ることだ。
別れ際、ベネットはメイトリクスに忠告した。
「サリーとエンリケス、どちらかと連絡が取れなくなったら、娘はあの世行きだ」
メイトリクスは、戦場でことあるごとに使っていた、お馴染みの捨て台詞を返した。
「I'll be back, Bennett」
うんざりするほど聞かされたこのフレーズも、今や心地よく感じられる。ベネットはいい気分だった。
「待っているよ、ジョン」


アリアスのもとへ戻ったベネットは、サリーからメイトリクスとエンリケスがバル・ベルデ行きの飛行機に搭乗した知らせを受けると、ジェニーを連れてアリアス軍団のアジトがある離島に向かった。
そこで、エンリケスからバル・ベルデに到着した報を待つことになる。
しかし、ベネットはそんな報が来ないであろうことは、ずっと前から知っていた。
メイトリクスは必ず命令に背き、娘を取り戻しにくる。
それも、バル・ベルデに到着する前にだ。大統領を暗殺したとこで、自分も娘も命がないことをやつはよくわかっている。
だから、飛行機が到着するまでの11時間の間に、やつは必ずこの島に現れる。
その時は、もはやアリアスの計画などどうでも良い。娘をエサに、メイトリクスをおびき出し、俺様ひとりでやつをなぶり殺す…。
それこそが、ベネットの本当の狙いだった。
ここから、遂にミッション<BENNETT ベネット>が始動したのである…。


第3章:カカシですな

といっても、メイトリクスが島に来るまでの間、特にやることはない。
そのため、ベネットはアリアスの護衛をするふりをしつつ、暇なのでナイフを矯めつ眇めつしながら、「ジョンのどこを切り刻んでやろうか」などと妄想を膨らませていた。
アリアスは常に能面のような表情で全く感情が読み取れないが、ナイフをながめてニヤニヤするこの男のことを内心気味悪がっていた。
そんな感じで時間を持て余しつつも、やっぱりやることがなくなってきたので、ベネットは「あなたの兵隊はまるでカカシですな。俺やメイトリクスなら、瞬きする間に殺せますよ。アハハ」などとアリアスをおちょくって遊んだりもした。
また、メイトリクスとの一騎打ちに備えて、美味しい料理をたらふく食べたりもした。


さて、そうこうしているうちに、アリアスの電話が鳴った。
バル・ベルデの空港で、メイトリクスの到着を待っていた部下からの報告だった。
「やつは乗っていません!」
怒り心頭に発したアリアスの手がプルプルと震える。
「娘を殺せ」
ベネットは笑みだけ返し、すぐさまジェニーを監禁している部屋へと向かった。
すると、あたりで爆発音が轟いた。
「やっぱりやって来たか。流石だ、メイトリクス」
嬉しさのあまり、ベネットは思わず独りごちた。
ルンルン気分で監禁部屋に入ると、中はもぬけの殻だった。
まさか…!?
あろうことか、ジェニーはベニヤ板でできた壁をはがして、外へ脱出していた。
「あの小娘がっ!」
メイトリクスよりも先に小娘を見つけなければ。
本来であれば、ジェニーの追跡は手下に任せて、アリアスの護衛に回るべきなのだが、この男の生死など、もはやベネットは歯牙にもかけていなかった。
壁を渾身の体当たりでぶち破ると、ちょうど地下へと続く階段をジェニーが駆け降りていくところが見えた。
辺りでは爆音と銃声がひっきりなしに続いている。
メイトリクスがアリアス軍団を皆殺しにするのも時間の問題だろう。
その前に、小娘をひっ捕えなければ。
ベネットは無我夢中で駆け出した。


第4章:地獄

地上で起きている爆発の衝撃で、張り巡らせれたパイプが軋んでいる。
ベネットは薄暗い地下を進んでいた。まるで小動物を血眼で探しているハイエナのように。
どこに隠れているんだ、小娘。とっとと出てこい。
ジェニーは物陰に息を潜めていたが、父親が近くに来ているのを感じ、あらん限りの声で叫んだ。
「パパー!」
その声は、メイトリクスに届いた。
「ジェニー、どこだ!?」
父親は一目散に、娘の声がこだまする地下へと降りていく。
「ジェニー!」
親子はついに、互いの声がはっきり聞こえる距離まで近づいた。
しかし、ジェニーの声が呼び寄せているのはメイトリクスだけではなかった。
物陰から飛び出したジェニーを、ベネットの手がつかんだ。
「キャー!」
「わるいな、パパでなくて」
これで俺の勝ちだ…。
ベネットは切り札を取り戻した。
そして遂に、メイトリクスが目の前に現れた。
ベネットはすかさず、鉛玉を彼の腕にぶち込んだ。
たまらずメイトリクスは、物陰に身を隠す。
「ジョン、顔を見せろよ。昔のよしみだ、一発で仕留めてやるぜ」
無論、ベネットにそのつもりはない。四肢を撃ちぬいて動きを封じてから、ゆっくりナイフでいたぶってやるつもりだった。娘には、その光景を特等席でおがませてやる。
ところが、メイトリクスの挑発がベネットの何かを揺り動かしつつあった。
「来いよベネット。銃なんか捨てて、かかってこい」
そうだ、俺が望んでいたのは一方的な拷問なんかじゃない。体と体のぶつかり合いだ。
ベネットは覚醒した。男ベネットは、正々堂々勝負する覚悟を決めたのだ。
「ガキにはもう用はねえ! ハジキも必要ねえ! てめえなんか怖かねえ!! 野郎お、ぶっ殺してやらぁぁぁ!!!」
こうして、史上最大の決闘が始まった。


組んず解れつする鋼の筋肉に包まれた肉体と、チョッキに身を包んだ狂気の肉体。
片腕を負傷したメイトリクスはやや劣勢で、ベネットの攻撃が彼の命を削っていく。
「いい気分だぜ。昔を思いださあ! これから死ぬ気分はどうだ、大佐!」
ベネットの意識は、完全にコマンドー時代に戻っていた。
彼の人生で最も輝いていたあの時代に。
メイトリクスと互いの体を激しく交じらせていた、あの素晴らしいときに。
ところが、「Bullshit!」と叫び自身を奮い立たせたメイトリクスの鉄拳を喰らい、ベネットは電熱線に背中から突っ込んだ。
「ギイイヤアアア!!!」
とてつもない電流がベネットの体を駆け巡った。万事休すか…。
だが、このときベネットは電流を自らのエネルギーへと変える秘技“ベネット・チャージ”を使い、まさかの復活。
雷のごときパワーで反撃した。
もう十分楽しんだ。そろそろケリをつけるときだ…!
「ハジキはいらねえ!」と勇んでいたベネットはどこへやら、結局銃で仕留めることにした。
「眉間なんか狙ってやるものか! 貴様のタマを撃ちぬいてやる!」
その刹那、メイトリクスは渾身の力で壁に張り巡らされたパイプを引き抜くと、そのままベネットの胴体めがけて投げ飛ばした。
ベネットは何が起きたのかわからなかった。
気がつくと、胸部を図太い棒が貫いていた。
そのパイプはベネットの背後にあったボイラーをも貫通し、パイプの先から蒸気が吹き出している。まるで、彼の精魂が流れ出ていくかのように。


蒸気の中にうっすらと映るメイトリクスの顔が、死にゆくベネットを見つめいている。
ほとんど感覚がなくなり何を言っているのかよくわからなかったが、死に際、ベネットはメイトリクスがこう言ったように感じた。
「地獄で待ってろ、ベネット」
そうだ、地獄でまた会おう、ジョン。その時は今度こそ、お前を片付けまさあ。


THE END

『ゴースト・オブ・マーズ』火星で首チョンパなホラー・バトル・ムービー

映画を観ていて無条件で気持ちが昂ってしまうのが、“首チョンパ”のシーンです。人の首がすっ飛ぶというあまりにも非日常的な描写は、ショック表現として抜群の破壊力があります。またそれだけでなく、残虐性が突き抜けているゆえに、コメディ的な文脈でも効果を発揮する点が魅力ではないでしょうか。(ここでいう首チョンパとは、あくまでフィクションにおける表現手法のことであり、現実世界の行為を指すわけではありません。)


映画の作り手達もそれをわかってか、首チョンパはある種のサービス精神に基づいて、数多の作品に盛り込まれてきたように思います。『オーメン』『13日の金曜日』『八仙飯店之人肉饅頭』『スターシップ・トゥルーパーズ』『バトル・ロワイアル』『ファイナル・デスティネーション』『スリーピー・ホロウ』『ホステル2』──アッと驚く首チョンパで観客を打ちのめしたタイトルは、枚挙に暇がありません。また首チョンパは、ロボットなど人間以外も対象となり得ます。『ゴジラ対メカゴジラ』のメカゴジラ、『エイリアン』のアッシュなどが、その体現者と言えるえしょう。


今回取り上げるゴースト・オブ・マーズも、そんな首チョンパな残虐ムービーの系譜にある、2001年のアクション・ホラー映画です。監督は恐怖映画のカリスマ:ジョン・カーペンター。彼は脚本・音楽も手がけています。


カーペンターの代表作といえば『ハロウィン』(1978年)や『ニューヨーク1997』(1981年)、『遊星からの物体X』(1982年)、『ゼイリブ』(1988年)あたりが挙げられることが多く、『ゴースト・オブ・マーズ』が大きくフィーチュアされることはあまりないと思います。しかし、国内屈指のカーペンター研究者として知られる映画文筆家の鷲巣義明氏が「マカロニ・ウエスタン、ロック、ホラー、SF、ラヴクラフトといったカーペンターの大好きな要素がすべて詰め込まれた、まるでカーペンター映画のフルコースみたいな作品」「表現者たるカーペンターの欲望と思いがたっぷり詰まった、いい意味でのCHAOSSのような作品」(洋泉社刊『映画秘宝ディレクターズ・ファイル ジョン・カーペンター 恐怖の倫理』より)と評しているように、本作は彼の作家性が炸裂した、ベスト・オブ・カーペンターとも言うべき1本となっています。


そのあらすじは──2176年、資源不足と人口過剰によって追いつめられた人類は、火星を植民地にしていました。そこで警官をしているメラニー(演じているのは『スピーシーズ』のセクシー・エイリアンでおなじみナターシャ・ヘンストリッジ)は、凶悪犯ウィリアムズ(ラッパーのアイス・キューブが好演)を引き取るため、鉱山町のシャイニング・キャニオンへ数人のメンバーとともに向かいます。


しかし、メラニーたちを待ち受けていたのは惨殺された死体の数々、そしてゾンビのように凶暴化した住人たちでした。いったい彼らに何が起きたのか…? やがて彼女たちは、シャイニング・キャニオンの住人たちが、火星のゴーストに取り憑かれて野蛮な戦闘集団へと変貌してしまった事実を知ります。窮地に陥ったメラニーたちは、牢屋に入れられていたウィリアムズら囚人たちと手を結び、町からの脱出をはかるのでした。


監督のジョン・カーペンターはミュージシャンでもあり、多くの作品で音楽を担当していることはよく知られています。『ゴースト・オブ・マーズ』でもその手腕が遺憾なく発揮されていますが、特筆すべきはメタル・バンド:アンスラックスが制作に参加している点。メタリカメガデス、スレイヤーと並んでスラッシュ・メタル四天王の一角を担う彼らの演奏は、カーペンターの作品にかつてないほどの躍動感とエネルギー、そしてロックなフィーリングをもたらしました。

 

劇中のバトル・シーンやショッキングな場面──ゴースト集団の餌食となり晒し首状態になったブラドッグ指揮官(演:パム・グリア)を、ジェイソン・ステイサム演じるジェリコが発見するところや、バシラ(演:クレア・デュバル)の首が敵の放った円盤カッター(勝手に命名)によりすっ飛ぶカットなどが特に最高──では、たいていズンズンと刻まれるヘヴィなギター・リフと、ベース&ドラムのリズム隊が生み出す戦車のようなパワフルなビートが、のべつ幕なしに観客を襲います。それによって『ゴースト・オブ・マーズ』は、異様な高揚感をキープして突き進む、カーペンター作品の中でも一、二を争うハイ・テンション・残虐ムービーとなったのです。

 

レコーディングに参加したアンスラックスのメンバーは、スコット・イアン(リズム&リード・ギター、ドラム)、ポール・クルック(リズム&リード・ギター)、フランク・ベロ(ベース)、チャーリー・ベナンテ(ドラム)の4人ですが、本作の音楽制作にはスティーヴ・ヴァイバケットヘッドという2人のギタリストも加わっています。彼らはテクニカル・ギター・シーンの中でもトップ・クラスの技量を持つ実力派であり、かつプレイの変態さでも有名です。

 

ロック・ファンにとっては贅沢きわまりない布陣が揃ったわけですが、残念なことに、ヴァイとバケットヘッドの流麗なテクニカル・フレーズは、映画本編ではほとんど(ヴァイに関しては全く)聴くことができません。そのプレイを思う存分堪能するには、ギター・ソロがしっかりと収められたサントラ盤を買わなくてはいけないのです。

 

収録順&曲名でいうと、①「Ghosts of Mars」⑫「Ghost Poppin'」でヴァイ、②「Love Siege」⑥「Kick Ass」⑩「Fightin' Mad」でバケットヘッドがそれぞれ客演しています(⑩の聴覚を切り裂くようなヘヴィ・リフに、奇妙なノイズがまぶされたサウンドが特に素晴らしい!)。ちなみに同サントラ盤では、④「Visions Of Earth」⑤「Slashing Void」⑨「Dismemberment Blues」でカーズのギタリスト:エリオット・イーストンがプレイしていることも見逃せないでしょう。


ゴースト・オブ・マーズ』は、こうしたロック・ミュージシャンの妙技とカーペンターの暴力映像表現が融合したことで、唯一無二の味わいを獲得しました。その妙味は、公開から20年近くが経った今もなお、薄れることはありません。

 

本記事は2020年7月24日にnoteで公開したものです。

『ゴジラ対ヘドラ』歪でサイケなヘンテコ怪獣映画

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シリーズ中最も奇怪で歪なゴジラ映画

監督を引き受けるからには、それまでの娯楽路線のゴジラ映画とは全く違う作り方をしたい。それには、第1作のようにきちんとした文明批評的なメッセージが必要だ─中略─今、ゴジラを通して訴えるべき文明批評的なメッセージは公害だ(坂野義光/『ゴジラ対ヘドラ』監督・脚本)
ゴジラを飛ばした男 85歳の映像クリエイター 坂野義光』(フィールドワイ刊)より


あの頃は低予算で撮影期間も10日〜2週間くらい。子供向けというのがはっきり打ち出されていましたね。大変でしたけど、何かやらなきゃって燃えてた時期でもあって、それでゴジラを飛ばしちゃった。(中野昭慶/『ゴジラ対ヘドラ』特殊技術)
『てれびくんデラックス愛蔵版 ゴジラ1954-1999超全集』(小学館刊)より


1971年7月24日に公開されたシリーズ第11作ゴジラ対ヘドラは、社会問題となっていた公害の恐怖を、怪獣ヘドラに仮託して描いた意欲作です。ゴジラの飛行シーンがファンの間で賛否両論となったことでも知られる本作は、特殊技術を担当した中野昭慶氏の証言にあるように、予算と時間が限られた厳しい条件下で製作されました。当時はテレビの台頭により映画産業が縮小していた時代であり、東宝も苦境に立たされていたからです。

 

そのため、『ゴジラ対ヘドラ』は本編班と特撮班を分ける従来の形ではなく、一班体制で撮影。また、1970年1月にゴジラの生みの親の1人である円谷英二が鬼籍に入り、特撮部門の主要スタッフが退社するなど混乱が起きていたことも、大きな痛手となっていました。それでも、坂野&中野の両氏はまだ若手だったということもあり、「いままでやってきてないことを、思い切ってやっちゃおうよ」(中野談)という気概を迸らせ、本作を完成させます。


このような状況下で生まれた『ゴジラ対ヘドラ』は、端的にいって異常な映画です。これまでに公開された日米ゴジラ・シリーズのどの作品と比べても、『ゴジラ対ヘドラ』ほど奇怪で実験精神に溢れた1本はないでしょう。もちろん、どの作品においても製作者が意匠を凝らしており、いずれも個性的な仕上がりになっていますが、『ゴジラ対ヘドラ』のユニークさは頭ひとつ抜きん出ていると言わざるを得ません。


宇宙からやってきた鉱物生命体がヘドロと融合して、怪獣ヘドラが誕生。巨大化&形態を変化させながら、硫酸ミストや強酸性のヘドロ弾をまき散らして各地に甚大な被害を与えるヘドラに、自然環境を守るべくゴジラが挑んでいく。この単純明快なストーリーを紡ぎ出す手法において、『ゴジラ対ヘドラ』は他の作品には見られない、前衛的ともいえるテクニックを駆使しています。


たとえば、劇中唐突に挿入されるアニメーション。安井悦郎氏が手がけたこのアニメーションは、場面転換における間奏曲的な役割を果たすと同時に、ヘドラによって壊れていく人間社会を戯画的に描き出すことで、観客に与えるショックを増幅しています。

 

タンカーが二つに裂かれるシーン、ヘドラ原油を呑むシーン、黒煙を吐く工場が起重機で緑を摘み取るシーン…。公害のテーマを明確に打ち出すうえでも大きな力を発揮したいくつかのアニメーション映像の中で、マスクをした女の頬のケロイド状の傷が被害地区の地図と重なるシーンには大きな手応えを感じた。
ゴジラを飛ばした男 85歳の映像クリエイター 坂野義光』より


また、中盤に登場するマルチスクリーンを用いたドキュメンタリー風の映像も特筆すべきポイントです。画面が2つ、4つ、8つ…最終的に32分割までされていき、ヘドラに対して怒りの声を上げる市井の人々、ヘドロの海につかった赤ん坊(照明スタッフ・原 文良のお孫さん)、頭蓋骨や奇形魚の頭部…など、リアルなものから抽象的なものまで様々な映像がランダムに映し出されていきます。ヘドラによる被害や混乱が拡散していく様を巧みに表現したこのシーンは、日本映画という大きな枠組みにおいても画期的でした。


そんな『ゴジラ対ヘドラ』の最大の魅力は、ヘドラという怪獣の恐ろしさ、異様さです。ヘドロ弾をまき散らして屍の山を築き、硫酸ミストによって逃げ惑う人々を白骨化させていく。あまつさえゴジラですら、ヘドラの身体に突っ込んだ右手の肉が溶け、ヘドロ攻撃を喰らった左眼は潰れるという、満身創痍の状態にまで追い込まれます。その上、身体はヘドロ物理的な攻撃は全く効かない。ある意味、ゴジラ最大のライバル怪獣であるキングギドラよりも厄介な敵なのです。


安丸信行氏によるヘドラの造形も素晴らしく、ぼろ切れの塊のようなその姿はまさに“異形の者”。坂野監督からの要望で女性器をイメージしてデザインされた目も、生理的に嫌悪感を感じざるを得ません。長い手をぶら下げてユラリユラリと動くその様は、まるで幽霊のようにも思えます。一から十まで不気味なところしかないのが、ヘドラという怪獣なのです。


このように『ゴジラ対ヘドラ』には実験的映像と奇怪な怪獣描写が詰め込まれていますが、決して恐怖映画あるいは大人向け映画というベクトルには振り切らず、あくまで子ども向けという体裁を守っています。その二面性こそが本作の歪さであり、子ども達にある種のトラウマを植え付けつつ、その心を惹き付けることもできた要因なのではないしょうか。

 

シリーズ唯一のサイケなギター・ソロが乱舞するゴジラ映画

ゴジラ対ヘドラ』には、ゴーゴー喫茶「アングラ」で若者達がバンド演奏に合わせて踊り狂う有名なシーンがあります。

 

ゴーゴーとは、ロックやソウル・ミュージックのリズムに合わせて体を激しく動かす踊りで、1960年代の中ごろにアメリカで始まり、世界中の若者の間で流行した。それが日本にも上陸し、アルコール類やソフトドリンク類を飲みながら、流れる音楽に合わせて踊ることができる若者向けバーとして大変人気を得た。
『HEDORAH/公害怪獣の映像世界・最終版』鷲巣義明(自主制作)より


主要登場人物である毛内行夫(演:柴本俊夫)と富士宮ミキ(演:麻里圭子)の2人もこの狂騒の中にいるのですが、グラスを片手にカウンターに腰掛ける行夫はすっかりへべけれな状態。一方のミキは、裸体にペインティングを施した刺激的な格好でステージに立ち(実際は肌のように見える薄手の衣類を着用し、その上にペインティングして撮影)、環境破壊に対する痛烈なメッセージ・ソングを熱唱。ここで歌われているのが、本作の主題歌「かえせ!太陽を」です。

 

坂野監督自身が作詞を手がけたこの曲では、水銀、コバルト、カドミウミといった汚染物質の名前が列挙されており、公害を引き起こした社会への怒りが露骨に表現されています。メロディー・ラインは明るくキャッチーですが、そこに乗せられた言葉は実に社会的で真摯なものでした。


このライヴ・シーンでは酩酊している行夫が辺りを見渡すと、周囲の人間の顔が一様に奇形魚の頭部へとすり替わっているというショック描写があります。これはもちろん彼の幻視なのですが、ここで行夫が単なる酔っぱらいではなく、クスリでラリッていることが暗示されており、今なお語り種となっています。

 

また「アングラ」のステージでは、まるでカラフルなアメーバがうごめいているかのようなサイケ調のライト演出がなされていますが、これは藤本晴美さんという女性ライト・アーティストが手がけたもの。2枚のアクリル板の間にアルコール、原色のインク数種、サラダオイルなどを入れ、リズムに合わせて手で動かし、強い光を当ててプロジェクターで投影する──という非常にアナログな手法で撮影されたものです。この幻想的なライティングも相まって、「アングラ」の場面は劇中随一のサイケデリックなシークエンスとなりました。


さて、ここで注目したいのが、ミキのバック・バンドにいるギタリストの演奏です。彼には特に役名もなく、どなたが演じていたのかもわかりません。また、音源の方で実際にギターを演奏したミュージシャンも、手元にある資料には記載がありませんでした。ただ、『映画芸術』誌の451号に寄稿された田中雄二氏のコラム「眞鍋作品の織り連なる軌跡をいま改めて確認する」(註:眞鍋とは『ゴジラ対ヘドラ』の音楽を手がけた作曲家の眞鍋理一郎)によれば、レコーディングに参加したのはアーティストの水谷公生ではないかという指摘があります(水谷氏は、キャンディーズなど人気アーティストの作品で、辣腕を振るった職人ギタリスト。作曲家・編曲家としても数多くのヒット曲に携わる)。


それはともかく、「アングラ」におけるライヴ・シーンはゴジラ作品において初めてハードなエレクトリック・ギターのいななきが聴けたという点で、少なくとも僕自身にとっては忘れ難い、記憶に刻まれた場面となりました。基本的にゴジラ映画の劇伴というのは、巨星・伊福部昭によるおなじみのテーマ曲を始めとして、各パートの演奏がしっかり設計された(アドリブの余地がない)楽曲が大部分を占めています。そんな中、楽譜に縛られない即興的(刹那的といってもいえる)で荒れ狂うギター演奏が劇中に流れる『ゴジラ対ヘドラ』は、その点において凄まじくユニークなのです。


本作が公開された1970年代初頭は、日本のロック史にとって過渡期でした。1960年代の終わりにGS(グループ・サウンズ)のムーブメントが収束していき、1970年にはRCサクセションはっぴいえんどフラワー・トラベリン・バンドといった、その後の国内ロック・シーンを牽引する重要バンドがデビュー。

 

またこの年の7月、1969年にニューヨーク州で開催されたウッドストック・フェスティバル(正式名称はWoodstock Music and Art Festival)の記録映画が公開されました。その中で火を噴くかのごとき鮮烈なギター演奏を聴かせ、泥沼化するベトナム戦争への痛烈な反対声明を音楽で表したジミ・ヘンドリックスの姿は、多寡の差はあれど、間違いなく当時のミュージシャン、わけてもギタリストに衝撃を与えたのです。


そうして日本の音楽文化が大いに刺激を受けている時代に、『ゴジラ対ヘドラ』は作られました。これは想像の域を出ませんが──しかし、その音を聴く限りにおいて、本作のギター演奏にはウッドストックを介して日本に流入してきたヘンドリックスの反骨の血が、みなぎっているように感じられます。


ちなみに、『ゴジラ対ヘドラ』の劇伴のレコーディングにおいてどんな機材が使われたのか知る由もありませんが、ワウ・ペダルというエフェクターは確実に使用されています。ワウは、ペダルを足の操作により開閉することで、その名の通り「ワウワウ」というニュアンスのギター・サウンドが得られます。ギター弾きの方には説明するまでもない定番機材なのですが、その方面の話しに明るくない人にはピンとこないでしょう。邦楽でいうと、ウルフルズの「ガッツだぜ!!」のイントロなどがワウを使った有名なフレーズでしょうか。とにかく、ジャンルを問わず活躍してきたエフェクターなのです。


ゴジラ対ヘドラ』では、「アングラ」のライヴ・シーン以外にもう一ヵ所、ワウ・ギターを堪能できるシーンがあります。映画の終盤、行夫とミキたちが富士の裾野で開催した「公害反対!! 100万人ゴーゴー」の場面です。“100万人”と謳いながら、実際に集まったのは1万分の1の100人。荒野に座り込んだ若者たちは、行夫の奏でる悲しげなアコースティック・ギターの音色を聴きながら、何をするわけでもなくボーッとしています。

 

すると、出し抜けにジャーンと威勢よくギターをストロークした行夫が、「しょぼくれたって仕方ない。歌おう、みんな!踊ろう、みんな!せめて、俺たちのエネルギーをぶちまけよう!」と半ばやけくそ気味に叫び、ここからハードなロックの演奏がスタート。仲間達も一斉に立ち上がり、音楽にのせて踊り狂います。


ここで演奏されているのは、サントラ盤で「俺たちのエネルギー」というタイトルが付けられたインストゥルメンタル(ヴォーカルのない楽器演奏のみの曲)です。同曲は常時ワウを踏みながらプレイされるギターが、徹頭徹尾テンションの高いサウンドを聴かせています。こんな荒野のど真ん中で、果たしてアンプを稼働させるための電力はどこから供給されているのか?と疑問が湧いてこないでもないのですが、そんな些細なことは関係ねえ!とばかりに、アドリブでガンガンに弾きまくっているわけです。ゴジラ映画を見ていて、まさかこれほどまでに狂ったギター描写が拝めるなんて、いったい誰が予想していたでしょうか!


ちなみに、驚くことに、100万人…もとい100人ゴーゴーの最中に現れたヘドラの必殺ヘドロ弾によって、行夫はあっけなく絶命してしまいます。興味深いのは、その死をとらえたカットの演出は非常にドライで淡々としているばかりか、その惨状を目撃していたミキと研少年(行夫の甥っ子)が、悲しんだりといった反応を一切示さないことです。2人よりも、映画を観ている我々の方がよっぽど行夫の死に心を痛めている…そう思えるくらい、ミキと研少年、および映画の作り手たちは彼の最期に対して超ドライな態度を貫いている。これについて、坂野監督は次のように語っています。

 

ゴジラ対ヘドラ』はヘドラの生態と成長を克明に描いていく。人間はそれを受けて動いて、ことさら心の動きは描かれない。人物は重要ではなくて、だから主人公の男にも、ヘドロを浴びせて簡単に殺してしまった。『別冊映画秘宝 特撮秘宝vol.4』(洋泉社刊)坂野義光インタビューより


映画の主人公はあくまでヘドラと、それに立ち向かうゴジラであり、彼らをエモーショナルに描くこそすれ、背景にある人間模様はことさら感傷的に描く必要はなかった。たしかに、人間側のドラマを丁寧に描いていったとしたら、物語のスピードは減じて冗長になり、映画の勢いが著しく削がれていたことでしょう。『コマンドー』級の死に対するドライな態度は、実に理にかなったものだったわけですね。


閑話休題。とにかく『ゴジラ対ヘドラ』は、シリーズ最“狂”のぶっ飛び映画であると同時に、サイケなロック・ギター描写を取り入れた唯一のゴジラ作品でもあるわけです。というわけで、もし今後ヘドラが登場する新たな作品が作られるのであれば、本作に勝るとも劣らない実験精神と挑戦的マインド、そして何よりクレイジーなギター描写があることを願って止みません。いや、なければならぬ! それがヘドラ映画の要諦なのだから!!

怖いゴジラが見たい

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恐怖! 白目ゴジラに震えた!!

本ブログのタイトルAll-Out ATTACKは、わたしにとってのベスト怪獣映画のひとつである『ゴジラモスラキングギドラ 大怪獣総攻撃』(2001年/以下『GMK』)から名前を頂戴しました。

 

同作は平成ガメラ三部作を手がけた金子修介監督による待望の初(そして今のところ唯一の)ゴジラ作品であり、1999年から2004年にかけて公開されたいわゆる“ミレニアム・シリーズ”で最も興行的成功を収めた作品です。


もうとにかく「たまらん」としか言いようのない、古今無双の大怪獣バトル・ムービーなのですが、この映画を最高たらしめている大事な要素のひとつが“白目”でございましょう。『GMK』のゴジラの眼球には、中心に虹彩・瞳孔がありません。シリーズ唯一の白目ゴジラなのです。

 

これは同作の怪獣造形を担当した品田冬樹氏によるアイデアで、ゴジラを徹底的に“怖いもの”として位置づける上で、非常に効果的でした。もちろん、それ以前もゴジラは恐怖の存在として描かれています。そうでない作品もありますが、少なくとも初代『ゴジラ』(1954年)から『モスラ対ゴジラ』(1964年)あたりまでの昭和シリーズ初期、『ゴジラ』(1984年)と『ゴジラVSビオランテ』(1989年)から『ゴジラVSデストロイア』(1995年)までのVSシリーズ、そしてミレニアム・シリーズにおいては、人類の生存を脅かす恐怖の存在/異物として描かれていることは論をまたないでしょう。

しかし、『GMK』以前のゴジラは“感情を有する生き物”という側面が垣間見えることも少なくなく、我々は彼の闘争心、苦しみ、憎しみ、悲しみをスクリーン越しに感じ取ることができました。


翻って、『GMK』のゴジラは、白目であるが故に感情を読み取ることが非常に困難です。その咆哮や身振りから多少なりともエモーションを感じることはできますが、それでも、『GMK』以前のゴジラに対して抱いていたある種のシンパシーのようなものは生じづらいと言わざるを得ません。白目が抱かせる直感的な恐怖がゴジラへの感情移入を阻むことで、「この世のものとは思えない、とんでもないヤツが日常に現れてしまった」という怪獣映画における醍醐味を、より増幅させることに成功しているのです。

 

また『GMK』ゴジラは、その出自の設定についても斬新で、水爆実験の影響で変異した巨大な海洋生物という従来の基本設定に、太平洋戦争で犠牲となった人々の残留思念=怨念が宿っている、という説明を加えています。だから、砲弾を受けても死なないのだと…。

 

これはもはやオカルト的な理屈で、荒唐無稽であることも否めないのですが、本シリーズが怪獣映画の形を借りて空襲の恐怖を描き、日本が蹂躙される痛みを活写した初代『ゴジラ』から始まっていることを踏まえると、非常に腑に落ちるところがあります。

 

戦争という災禍を忘れようとしている日本を、戦死者の亡霊が怪獣となって太平洋から攻めてくる。それがいくらオカルト的であり荒唐無稽な話であっても、戦争の恐怖の化身でもあるゴジラの歴史的文脈においては、妙な説得力を帯びてくるのです。そして、この設定は白目がもたらす直感的な恐怖と相まって、『GMK』ゴジラをかつてないほど恐ろしい存在たらしめました。


徹底してゴジラを“異物”として描いた『シン・ゴジラ

こうして『GMK』によってアップデートされた人類の生存を脅かす恐怖の存在/異物というゴジラ像は、『シン・ゴジラ』(2016年)でさらに深化し、極限に達します。


シン・ゴジラ』の革新的な点のひとつとして、ゴジラの造形にグロテスクさを加味したことは見逃せません。体液をまき散らしながら車や家屋を蹴散らしていく第2形態は言わずもがな、一般的なゴジラのフォルムを持つ第4形態も 、えも言われぬ異様さを漂わせています。赤くただれたような皮膚、どこを見ているのか判然としない空虚な瞳。尻尾は不気味なほど長く、先端がまるで『ザ・グリード』(1998年)に出てくる化け物みたいで、生理的に嫌悪感を感じざるを得ない。

 

こんな異常なゴジラの造形は、かつてありませんでした。慣れ親しんだゴジラと、こいつは明らかに異なっている。似ているようで、何かが決定的に違う。それによって、我々は反射的に恐怖を抱いてしまう。この異物に接する感覚は、総監督・脚本を手がけた庵野秀明氏の代表作『新世紀エヴァンゲリオン』シリーズに登場する使徒や、『ガメラ3 邪神<イリス>覚醒』(1999年)の敵怪獣イリスにも通じるところがあります。


そんな『シン・ゴジラ』において最も恐怖を掻き立てられるのは、第4形態が鎌倉に上陸してから東京に侵入し、放射熱線によって首都を焼き尽すまでの第2幕でしょう。このシークエンスで注目したいのが、ゴジラが上陸してからアメリカ空軍の戦闘機によるミサイル攻撃を食らうまでの間、一切熱線を吐かなければ鳴き声も上げていないという点です。

 

それまでのゴジラ映画では、登場とともに雄叫びをあげるのが定番であり、その度に観客も「いよっ!待ってました!」と(心の中で)快哉を叫んでいたことと思います。しかし、鎌倉に上陸した第4形態は、どれだけ自衛隊から大砲やミサイルを浴びせられようと、全くリアクションを起こさず、ひたすら無心に東京めがけて前進するだけです。おそらくそれまでのゴジラ映画であれば、少なくとも自衛隊との攻防で、怒りの咆哮を放ち、熱線の一発でもお見舞いしたことでしょう。


この演出による効果は大きく2つあると思っていて、ひとつは熱線の発動を引っぱることで中盤の首都壊滅シーンにおける(劇中の人物達、観客双方の)絶望感をグッと高めること。もうひとつは、先述した「この世のものならざる、とんでもないヤツが日常に現れてしまった」という恐怖を、これでもかというくらい増幅させることです。生き物であるはずなのに、どれだけ火力を注ぎ込んでも全く動じない。なぜ東京を目指すのか、目的がまるでわからない。絶対的に交信不能な、高層ビルよりもデカい巨大な何かが、まるで人間やその社会など眼中にないかのように、ひたすら迫ってくる。この恐怖たるや…。本当にこの第2幕は、本作の白眉だと思います。


シン・ゴジラ』が空前のヒットとなった背景には、こうした恐怖のゴジラに飢えていた渇望感が、ファンの中に蓄積していたことも少なからず関係していると考えています。(もちろん、老若男女を問わず幅広い客層を巻き込んだことなど、その要因は様々です)。

 

ゴジラ生誕50周年のタイミングで、一旦シリーズに終止符を打った『ゴジラ FINAL WARS』(2004年)は、昭和期の子ども向け路線から平成期まで、あらゆる時代のゴジラ映画のイメージを総括したような、愉快で痛快なバトル・ムービーでした。そのため、徹底的に人類と対峙する恐ろしいゴジラを期待したファンにとっては、どこか満たされない作品になってしまったのも事実だと思います(僕もその一人です)。

 

それから10年が経ち、ゴジラはまさかのハリウッドで復活を果たしました。それが、ギャレス・エドワーズ監督がメガホンをとった2014年の『GODZILLA ゴジラ』です。初めてアメリカ資本で制作されたゴジラ映画(1998年のローランド・エメリッヒ監督版)では前傾姿勢で恐竜のように街を激走する独特のゴジラ描写が、オリジナルを愛する国内外のファンから大いに叩かれました(僕自身はエメゴジは嫌いになれず、むしろ好きです)。

 

一方、ギャレス版『ゴジラ』は、やはり賛否が分かれたものの、1998年版に比べれば多くのファンを納得させることに成功。興行的にも世界で5億ドル以上を稼ぎ出し、ゴジラが今なお国際的に通用するポップ・アイコンであることを証明したのです。ただ、多くの方が言及している通り、このギャレス版のゴジラは人類の脅威ではなく、平成ガメラに近いポジション──つまり“ガーディアン・オブ・ユニバース”として描かれていました(他ならぬ金子修介監督ご自身も指摘しています)。人類を脅かすのはもっぱら敵怪獣ムートーで、ゴジラはムートーが乱した生態系のバランスを取り戻す自然界の守護神として位置づけられています。


この描き方自体には全くケチをつけるつもりはありません(ゴジラではなく主にムートーが物語の推進力を生み出している点は、かなり問題だとは思いますが…)。ただ、当初の予告では敵怪獣の存在が伏せられていたこともあり、ゴジラが世界の秩序を揺さぶる一大スペクタクルが観られる!と期待せずにはいられませんでした。


ところが、蓋を開けてみると、結局ゴジラ津波を引き起こしてハワイに被害を与えたり、建物をぶっ倒したりと物理的には大暴れしてくれましたが、物語の立ち位置的には“秩序を守る”もしくは“取り戻す”側にいたのです。その点には、正直なところ物足りなさを感じてしまいました。たぶんそう感じたのは、僕だけでないと思います。つまり、『ゴジラ FINAL WARS』で鬱積した恐怖のゴジラへの渇望感は、ギャレス版『ゴジラ』が公開してもなお、満たされないままだったのです。だからこそ、『シン・ゴジラ』が人間社会の秩序をぶち壊す“異物”としてゴジラを徹底的に描ききったことで、多くのファンが熱狂できたのではないでしょうか。


ギャレス版『ゴジラ』が嚆矢となり始まった“モンスターバース”シリーズ(2017年『キング・コング:髑髏島の巨神』、2019年『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』、2021年公開予定『Godzilla vs. Kong』)では、引き続き”ガーディアン・オブ・ユニバース”としてのゴジラが活躍し続けます。それを追うのは無論楽しいし、ハリウッドが本気でゴジラを作り続けているという事実だけでも、興奮せざるを得ません。


しかし、『GMK』や『シン・ゴジラ』の血を受け継ぐ新しい恐怖のゴジラを求める気持ちは、日増しに強くなりばかりです。現在、東宝内でどんな企画が進行しているのか知る由もありませんが、それが白目ゴジラの血を引く恐怖の怪獣王映画であることを祈って、首を長くして待つほかありません。

 

本記事は2020年7月1日にnoteで公開した文章を修正したものです。